エール音楽挺身隊など古関金子の戦争の実話まとめ

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NHK朝ドラ「エール(えーる)」では、これから戦争がもっと厳しいものになり、庶民にも大きな影響を与えるようになります。

朝から少し思い雰囲気になってしまいますが、戦争の描写は非常に重要な意義深いものなので、どのように描かれるか気になるところです。

「エール」の主人公の古山裕一(窪田正孝)の妻で、二階堂ふみ(にかいどうふみ)さん演じる古山音(こやまおと)もそのひとり。

これから音は、音楽挺身隊で慰問先で歌を歌うようになります。

古山音のモデルは、裕一のモデルである古関裕而(こせきゆうじ)さんの妻、古関金子(こせききんこ)さんです。

さて、古関金子さんの戦争の実話はどうだったのでしょうか?古関金子さんも「音楽挺身隊(おんがくていしんたい)」で歌った!?

今回は朝ドラ「エール」の関内音のモデルになった古関金子さんの戦争時代についてまとめました。

エールの今後のネタバレが少し含まれますので、閲覧注意です!

目次

エールの音楽挺身隊とは?古関金子が歌ったのか気になる!

伊藤久男は戦争で召集令状が来た?エールは実話でない?

「音楽挺身隊(おんがくていしんたい)」とは、山田耕筰さんが作った音楽隊のことです。

山田耕筰さんをモデルにしたのが、志村けんさんが演じた小山田耕三。

再登場したときにはびっくりしましたが、嬉しかったです(^^)

1941年、情報局管轄下の「日本音楽文化協会」ができ、その副会長として山田耕筰さんが任命されました。

その数日後に山田耕筰さんは「音楽挺身隊」を結成し、自ら隊長となられています。

この「音楽挺身隊」は演奏家協会の全会員となる3000人を動員。

軍需工場や農村漁村などに慰問に訪れていたそうです。

山田耕筰さんはそこで指揮を執り、「音楽挺身隊の歌」も作りました。

歌ったのは主に軍歌。軍歌によって戦意高揚に務めるためのものです。

そういえば「エール」でも小山田耕三が、軍人と堅い握手をしていましたよね~。

ここからエールのストーリーのネタバレです!

「エール」で古山音(二階堂ふみ)は、これから音楽挺身隊に参加。軍需工場や戦時産業などの施設を慰問し、そこで働くひとたちのために歌を歌います。

この音楽挺身隊は、戦意高揚の役割も担っていました。

ドラマでは、あまり乗り気ではなかった音でしたが、妹の梅(森七菜)の勧めもあり参加。

音楽挺身隊では音楽学校のなつかしい仲間と再会をします。

音の良きライバルだった、夏目千鶴子(小南満佑子)も登場するのでしょうか(≧∇≦)

実際に慰問先で歌うと、慰問先の人たちに喜んでもらえ、音は手ごたえを感じるのでした。

という展開になります。

さて、音は子どものために音楽教室を開いていますが、古関金子さんは実際どうだったのでしょうか?古関金子さんの戦時中について調べてまとめてみました!

 

 

古関金子は戦争でも歌のレッスンを受けていた?音楽教室は?

古山音のモデルは古関金子!エールで二階堂ふみ演じる妻

古関金子さんは、戦争が始まったとき歌のレッスンを受けていました!音楽教室は開いていなかったようですが、教えることはあったようです。

古関金子(旧姓内山)さんは、古関裕而さんより3歳年下で1912年生まれです。ご存命であれば108歳になられますね。

「エール」の音(二階堂ふみ)と同じで愛知県豊橋で生まれました。

父親は馬具などを陸軍に納入する店を営んでいましたが、金子さんが12歳のときにお亡くなりになっています。

その後母親が事業を引き継いでいるので、ドラマは史実通り描いています。

小さなときからお転婆(^_^;)。音楽と文学が大好きな空想好きの少女でした。

古関裕而さんとの結婚もドラマと同じ。世界的作曲コンクールで入賞した古関裕而さんにファンレターを書いたことがきっかけ。

コロムビアの専属作曲家となった古関裕而さんとともに上京。そのきに帝国音楽学校声楽部に入学します。

ですがおよそ半年後に長女の出産で学校を中退します。

次女を出産したあと、本格的に声楽を学ぶようになりました。

戦前にはオペラなどにも出演していたそうです。

金子さんの才能はとても高く、師事していたベルトラメリ能子さんから「後継者」とまで言われていたとか。

1941年には有名なオペラ歌手とともに舞台に出たそうです。舞台の名前は「伊太利亜歌劇の夕べ」。

1941年は「暁に祈る」の1年後。このころまで声楽を学んでいたんですね。

「練習は1日休めば自分に、2人休めば周囲に、3日休めば誰にもさとられてしまう」と思い、練習不足を恐れていたそうです。

金子さんの歌に対する情熱がわかるエピソードですね。

ですが戦争が激しくなり、声楽の活動を中断してしまったそうです。

古関金子さんが、音楽教室を開いていたかどうかはわかりませんでした。

ただふたりの娘とともに福島に疎開していたとき、そこで金子さんは歌を教えていたそうです。

また家族でよく歌を歌っていて、とても仲のいいご家族だったといいます。

そして1945年に東京に戻り、1946年に長男が誕生。

これを機に金子さんは声楽をやめ、子育てに専念するようになりました。

さて、金子さんは音楽挺身隊で歌を歌っていたのでしょうか?

 

 

古関金子は音楽挺身隊で歌った?戦時中のできごとは?

エールのモデルは古関裕而と古関金子!天才作曲家と妻

古関金子さんが「音楽挺身隊」に参加した、という事実は見つけることができませんでした。

でも音楽挺身隊は古関裕而さんにとって、恩師でもある山田耕筰さんが作ったので、参加されていた可能性はあります。

また音楽挺身隊ができた1941年は、まだ金子さんは声楽をやっていました。

自ら参加とまではいかなくても、声がかかる可能性も高かったのではないでしょうか。

さて、戦時中のできごとです。

また、

東京空襲が激しくなってきた1945年。ふたりの娘とともに福島に疎開することにしました。

福島の知人である二階堂魚店に疎開しています。仕事が忙しかった裕而さんは東京に残ります。

二階堂っていうのも何かの縁を感じますね(^^)

ところが疎開して1か月後、なんと金子さんは腸チフスで入院(>_<)生死をさまようような重体になったそうです。

およそ1か月入院していましたが、元気を取り戻します。

本当に良かったです。この時、愛する金子さんがもしお亡くなりになっていたら、古関裕而さんのその後のヒット曲はなかったかもしれません。

まだ療養中だったとき。金子さんが疎開先で歌を歌うと、米兵がその場に腰掛け、およそ1時間も金子さんの歌声に聞きほれていたとか(#^^#)

こちらが金子さんの歌声です♪

引用元 YouTube

透き通っていてよく通る声ですね♪明るい人柄が伝わってきます(^^)

終戦となり1945年に東京に戻り、金子さんは声楽を再開します。

ですが翌年長男を出産。このとき子育てに専念するため、声楽をやめたそうです。

そのせいか過干渉で過保護だったと、長男の正裕さんはブログに記載されています。

古関金子さんの最後の活動は、1949年から50年にかけて放送されたラジオ番組。

古関裕而さんによる3つの創作オペラでしたが、藤山一郎さんと山口叔子さん、そして金子さんたちが出演しました。

「エール」でも裕一が作曲した曲を、音が大きな舞台で歌う、というふたりの夢がありましたね。

このときが夢がかなう時なのでしょうか?想像すると嬉しくなります♪

その後金子さんは株式投資に熱中したり、詩を書いたり、油絵の教室に通ったりと趣味を楽しんでおられたそうです。

油絵は新槐樹社展で入選したこともあるとか(≧∇≦)

1980年、がんが全身に転移したことで、68歳でお亡くなりになりました。

息子の正裕さんは、今回のドラマ化について金子さんはこのように思っているのでは?と語っています。

表向きは謙遜しながらも、内心はとても喜んで自慢したのでは

さて、金子さんをモデルにした古山音。これからどのように描かれるのでしょうか。

エールの音楽挺身隊に古関金子はいた?戦争の実話のまとめ

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「エール」でこれから音は音楽挺身隊に参加し、軍需工場などに慰問に訪れ、そこで歌を歌って激励します。

音のモデル、古関金子さんもこの音楽挺身隊に参加されたのか?と調べましたがわかりませんでしたm(__)m

ただこのころ金子さんはまだ声楽を勉強していたので、参加した可能性はあると思います。

金子さんの戦時中の様子を調べてみると、本当に歌が大好きだったことが伝わってくるエピソードばかり。

それだけに、戦時中に歌を辞めなくてはいけなかったことは金子さんにとって辛いことだったと思います。

また音楽挺身隊を作ったのも、夫の古関裕而さんの恩師、山田耕筰さんなので、お誘いはあったと想像できます。

さて、「エール」では音楽挺身隊で音が久々に歌います。

音楽学校の仲間たちも登場するようなので、どうぞお楽しみに♪

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