リーフデ号事件と徳川家康の史実とは?ウイリアムアダムスと出会いとその後とは?

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嵐の松本潤さんが徳川家康(とくがわいえやす)を演じて話題の2023年NHK大河ドラマ「どうする家康(どうするいえやす)」は、間もなく、天下分け目の決戦・関ヶ原の戦いが描かれます!

家康の宿敵・石田三成(いしだ・みつなり)を演じるのは、歌舞伎俳優の中村七之助さんです。

実は松潤と七之助さんは実生活では大親友だそう。

そんな二人がどんなバトルを繰り広げるか注目したいところですよね。

関ヶ原の戦いの行方も気になるところですが、関ヶ原の戦い直前にある出来事が起こります。

それはリーフデ号事件(りーふでごう じけん)です。

イギリス人とオランダ人が乗ったオランダ船のリーフデ号が九州に漂着した出来事で、この出来事が徳川家康はある判断を下すことになります。

リーフデ号に乗っていた、ウイリアム・アダムスというイギリス人と家康は交流が有ったと言われているんですよね。

多くの人がご存じかと思いますが、ウイリアム・アダムスは後の三浦按針(みうら・あんじん)ですね。またドラマに登場するのかわかりませんが、オランダ人のヤンヨーステンとの出会いもありました。

有名なイギリス人のウイリアム・アダムスとともにあるオランダ人とも出会いがあり、家康の今後の外交製作に大きな役割を果たすことになります。

今回は大河ドラマ「どうする家康」41回で描かれるリーフデ号事件と徳川家康の史実についてご紹介します!

豊後に漂着したリーフデ号のイギリス人・ウイリアム・アダムスとのその後についてもご紹介です。

目次

リーフデ号事件に遭遇する徳川家康の【どうする家康】ネタバレ

石田三成と徳川家康の関係は不仲じゃなかった?史実とは?

まずは気になる「どうする家康」第41回「三成の逆襲」のあらすじをご紹介します。

家康の決断で、佐和山城に隠居させられた三成(中村七之助)。一方、家康(松本潤)は大坂城・西ノ丸に入り、政治を意のままに行い、周囲から天下人と称されていた。そんな家康を茶々(北川景子)は苦々しく見ている。ある時、会津の上杉景勝(津田寛治)に謀反の噂が広がる。家康は茶々から天下泰平のため、成敗に向かうべきと諭されるが、大坂を離れることに一抹の不安を感じ、留守を鳥居元忠(音尾琢真)に預けることにする。

引用元:公式サイト

豊臣家中を混乱させたとして、家康に謹慎を命じられた三成。

一方、家康を快く思わない上杉景勝に謀反の兆し有り?

間もなく世に有名な「関ヶ原の戦い」勃発という感じのストーリー展開ですが・・・

予告映像の中に登場した「ウイリアムアデムス」という外国人らしき人物が気になりましたね。

公式あらすじには書かれていませんが、関ヶ原の戦いの直前にある出来事が起こります。

それは「リーフデ号事件」で、イギリス人航海士が九州に漂着して家康と対面することになるんです。

その航海士がウイリアムアダムスといい、村雨辰剛さんが演じます。

村雨辰剛さんといえば、先日放送されたNHK「大奥」での青沼役が印象深いかたも多いのでは?

青沼からウイリアムアダムスに転生?なんてSNSでも盛り上がっていました!

徳川家康にとって大きな出来事はもちろん、関ケ原の戦いですが「リーフデ号事件」も今後の徳川家康の今後の外交政策に関係する大きな出会いをすることになります。

気になるウイリアムアダムスが日本に漂着した「リーフデ号事件」のストーリーをNHK公式ガイドブックからご紹介します。

リーフデ号事件で徳川家康はウイリアムアダムスと対面!

茶々の子供の鶴松と豊臣秀頼の最後と死因とは?衝撃の生涯まとめ!

石田三成が佐和山に謹慎し、会津の上杉景勝に不穏な動きありと予断を許さない状況のさなか。

1600年(慶長5年)春、オランダ船のリーフデ号が、豊後(今の大分県)の臼杵に漂着したのです。

二年前、五隻の船団でロッテルダム港を出港した航海は過酷を極め、極東に到達したのはリーフデ号一隻のみ。

百十人いた船員のうち、生存者はわずか24人だったといいます。

イエズス会のポルトガル宣教師たちは、リーフデ号は海賊船だと主張!

乗組員を即刻処刑すべきと主張するも、家康は慎重でした。

二代目・茶屋四郎次郎に通訳を頼み、数人の乗組員を大坂城に召し出して会うことにします。

茶屋四郎次郎って、中村勘九郎さんが演じていたのですが、初代はすでに死んでしまったみたいですね(;^_^A

おそらく中村勘九郎さんが二役で演じるのかもしれません!

家康が対面した中に、体の大きな航海士がいました。

その名も・ウイリアムアダムスで、のちに侍の称号を得た初の外国人となる三浦按針(みうらあんじん)のこと。

誰もが知っている歴史的にも有名な人物ですね。

話を聞くと目的は東洋との交易で、宣教師たちがしつこく処刑を求めたのは、カトリック国のポルトガルとスペインが、オランダやイギリスなどのプロテスタント国と紛争中のため。

事情が分かった家康はアダムスに質問を浴びせ、夜が更けるまで語り合ったのでした。

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リーフデ号の主人公?ウイルアムアダムスは?

「どうする家康」第41回で描かれたリーフデ号事件。

実際にあった出来事なのか、気になる方も多いと思いますが史実にも存在します。

歴史の教科書にも登場するので、ご存じだった方も多いかもしれませんね。

まずは事件の当事者でもある、ウイリアムアダムスについて少しご紹介します。

1564年、イギリスに生まれたアダムス。

12歳になると大工見習として働きだし、造船、航海術、天文学など船乗りとしての知識を深めていきました。

その後、イギリス海軍で艦長や航海士を務めるようになり、その後も貿易会社に勤めて多くの航海を桂冠します。

そして1598年、オランダ商船団の東洋遠征の話を聞き、弟と参加することにしたアダムス。

1596年6月、アダムスが航海長を務めるホープ号を筆頭に、5隻がオランダロッテルダムを出港。

その後の航海は困難を極めて、船員たちの多くは亡くなってしまいました。

リーフデ号事件で徳川家康がウイルアムアダムスに出会う!

ホープ号の艦長が亡くなってしまったことで、リーフデ号に乗り移ったアダムス。

その後も航海は苦難の連続で、弟を含む多くの船員が命を落とします。

そして1600年4月、リーフデ号は豊後の臼杵に近い佐志生(さしゅう)の海岸に漂着することに。

当初の船員は500人近かったものの、日本にたどり着いたのは24名のみでした。

乗組員のイギリス人アダムスは、オランダ人のヤンヨーステンと共に、その後大坂に行き、当時の権力者・徳川家康と対面します。

家康は布教を伴わず、貿易の身の航海であり、過酷な状況を乗り越えたことに好感を覚え、アダムスらを江戸に招いたのです。

彼らのもたらした幾何学知識や、積み荷の大砲などが、目前に迫った関ヶ原の戦いにも活用されたと言われています。

そして関ヶ原の戦いに勝利した家康は江戸に幕府を開き、ウイリアムアダムスを外交顧問として起用しました。

アダムスは、旗本の身分を得て、三浦郡に250石の領地を得て、三浦按針と名乗ることに。

アダムスは朱印状をもって、海外貿易を強化するとともに、日本で結婚して子供ももうけました。

しかし家康が亡き後、鎖国政策が進み、アダムスは二代将軍・秀忠に鎖国の緩和を訴えますが聞き入れてもらえません。

そして、失意の末に長崎の平戸の地で亡くなったとされています。享年55歳。

このウイリアムアダムスこと三浦按針の名前は、今の東京にもその名が地名に残っています。

日本橋にある「按針通り」は、かつてアダムスが住んでいた場所だったからだそう。

他にもリーフデ号に乗っていたオランダ人・ヤンヨーステン!

この人物も家康に重用されて、世界情勢を伝える役割を担ったとされています。

日本名は耶揚子(やようす)で、その住居は今の東京駅近くに有ったとか。

東京駅近くの「八重洲」という地名は、この耶揚子が由来になったとも言われていますね!

 

リーフデ号事件と徳川家康の史実まとめ

【どうする家康】最終回はいつ?何話まで放送?

今回は「どうする家康」のリーフデ号事件と家康との史実についてご紹介しました。

リーフデ号で漂着した、外国人ウイリアムアダムスとヤンヨーステンと対面した徳川家康!

その後、二人は家康の家臣となり重用されたと言われています。

ウイリアムアダムスは三浦按針、ヤンヨーステンは耶揚子という名前を名乗り、二人の名は今も東京の地に残っているんですよね。

関ヶ原の戦い間近に起こった、リーフデ号事件!

どうする家康でもしっかりと取り上げられますので、ぜひ皆さんご期待ください。

 

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