鳥居元忠の伏見城の戦いで活躍の史実の顛末とは?

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2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」は、徳川家康の波乱万丈の生涯を描いた物語です。

家康を演じるのは嵐の松本潤さんで、物語も後半戦に突入し間もなく天下分け目の関ヶ原の戦いが描かれることになります。

そんな関ヶ原の戦いの前哨戦と言えるのが、伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)です。

家康を幼いころから支えた鳥居元忠(とりいもとただ)が活躍した戦いで、どうする家康で元忠を演じているのは音尾琢真(おとおたくま)ですね。

41回、42回で描かれる伏見城の戦いですが、あまりご存じない方も多いと思います

今回は「どうする家康」で鳥居元忠の伏見城の戦いの史実についてネタバレ紹介しします!

目次

鳥居元忠が活躍の伏見城の戦いが勃発!どうする家康のネタバレとは?

間もなく関ヶ原の戦いとなる「どうする家康」第41回の気になるあらすじをまずはご紹介します。

家康の決断で、佐和山城に隠居させられた三成(中村七之助)。一方、家康(松本潤)は大坂城・西ノ丸に入り、政治を意のままに行い、周囲から天下人と称されていた。そんな家康を茶々(北川景子)は苦々しく見ている。ある時、会津の上杉景勝(津田寛治)に謀反の噂が広がる。家康は茶々から天下泰平のため、成敗に向かうべきと諭されるが、大坂を離れることに一抹の不安を感じ、留守を鳥居元忠(音尾琢真)に預けることにする。

引用元:公式サイト

石田三成が謹慎となったことで、一躍天下を統べる役割を担うことになった徳川家康!

しかし面白くない同じく五大老の上杉景勝は謀反を企てます。

それを抑え込むために東に向かう家康は、留守の京・伏見城を幼いころから一緒にいる忠義の家臣・鳥居元忠(音尾琢真)に任せることにしたのです。

鳥居元忠は通称・彦右衛門と呼ばれ、父親の鳥居忠吉の死後跡目を継いでいます。

明るく実直な性格で、悩みがつきない家康の心に寄り添う存在です。

やや不器用なところがある者の、戦場ではスイッチが入ったように大活躍をしましたね。

そして家康が探していた武田の忍び・千代(古川琴音)を匿っていたものの、家康の許しを得て妻に迎えたなんてエピソードもありました!

鳥居元忠と千代の史実は馬場信春の娘を妻にした実話!

そんな鳥居元忠が、任された伏見城は西の抑えとなる重要な拠点です。

家康が東に上杉討伐に向かったことで、石田三成が決起して伏見城が狙われることになります。

果たして、鳥居元忠の運命は?

以降で第41話、42話での関ヶ原の戦いの前哨戦と呼ばれる伏見城の戦いの展開についてネタバレ紹介します。

鳥居元忠と千代の運命は伏見城の戦いでどうなるかネタバレは?

上杉討伐に向かう決意をした家康。

家康が大坂を留守にすれば、三成は必ずや無謀な負け戦と分かっていても兵を挙げるかもしれない。

そう思った家康は、今川の人質時代から付き添ってきた幼馴染の鳥居元忠(彦右衛門)に拠点となる伏見城の守りを任すことにします。

元忠は、命に代えても守って見せると胸をたたき言いました。

「殿、宿願を遂げる時でございます。戦無き世を成し遂げてくださいませ」

「彦、任せた・・・」

老いてますます固い絆で結ばれた二人は、お互い涙を浮かべています。

そして1600年6月、伏見城を出発した家康軍は、7月に江戸城にたどり着き会津に向けて進軍。

すると案の定、石田三成が挙兵したという知らせが入ります。

大坂城は乗っ取られ、諸将の妻子たちは人質に取られてしまいました。

家康の側室・阿茶局にも危険が迫りましたが、寧々に助けれて無事な様子。

こうなると、伏見城を守る鳥居元忠にも危険が迫るだろうが、あの桶狭間を戦い抜いた元忠が助太刀など望むまいと思う徳川の家臣たち。

そして家康は、上杉討伐を中止して、小山にて評定を行い、三成討伐を皆に宣言します。

福島正則、山内一豊らの賛同を得て、京に引き返すことにした徳川軍。

そのころ伏見城には三成側に付いた宇喜多秀家の軍勢が迫っていて・・・

1600年8月、小山から江戸にもどった家康のもとに書状が届きます。

そこには伏見城が落ちたという悲しい知らせが。

鳥居元忠は家臣一同と最後まで見事に戦い抜き、城を枕に討ち死に。

側室の千代もまた夫に殉じたと書かれていたのです。

家康はこの戦は負けるわけにはいかない。どちらがより多くの味方が付くかで決まると思い、筆を走らせました。

「腕が折れるまで書くぞ。彦のためにも・・・」

涙と怒りも飲み込んで、家康は連日連夜、各地の大名へ援軍を求める書状を書き続け、いざ関ヶ原の地へ向かうことになるのでした!

鳥居元忠の伏見城の戦いで活躍の史実の顛末とは?

石田三成と徳川家康の関係は不仲じゃなかった?史実とは?

「どうする家康」第41回、42回にかけて描かれる関ヶ原の前哨戦ともいわれる「伏見城の戦い」!

以降で、史実の詳しいエピソードをご紹介します。

1600年6月。家康が上杉討伐のために関東に向かうことになります。

そのとき上方の拠点である伏見城を任されたのが鳥居元忠でした。

6月16日、家康は伏見城にて元忠と深夜まで酒を酌み交わしたと言われています。

幼いころからの家臣を死に追いやるのは、家康にとっても耐え難いもの。

しかし、この役割を任せられるのは元忠よりほかにいません。

家康は3000しか兵を置いていけないことを詫びると、元忠は言います。

「殿の天下取りの為なら喜んで捨て石になりましょう。捨て石に3000は多すぎる」

こうして1800人まで兵を減らさせたという逸話もあるそう。

そして家康が関東に向かうや否や、予想通り三成は毛利輝元を総大将として挙兵します。

7月18日、毛利輝元は伏見城の明け渡しを命じますが元忠は拒否。

すると宇喜多秀家率いる4万の軍勢が伏見城を襲ってきたのです。

約20倍の軍勢ながらも、伏見城を守る鳥居元忠たちは奮戦して、1週間が過ぎても城が落ちることはありませんでした。

しかし、伏見城の籠城に加わっていた甲賀衆たちが寝返ったことがきっかけで、ついに城の守りは破られてしまいます。

元忠は本丸の総門を開き、迫りくる兵たちと戦い抜きました。

最期は、鈴木重朝に打ち取られたとも、自害して果てたとも言われています。

鳥居元忠が、家臣の数百名とともに自害したとき城の床に飛び散った血で染まった床板はその後取り外され、供養のためお寺の天井板として設置されたと言われています。

これが血天井です。この血天井、今でも京都・大原の「宝泉院」でその血痕をはっきり見ることができます。

享年62歳。その死は「三河武士の鑑」と称えられました。

 

鳥居元忠の伏見城の戦いの史実まとめ

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今回は「どうする家康」で鳥居元忠が討ち死にした伏見城の戦いについてご紹介しました。

関ヶ原の戦いはあまりにも有名ですが、その前哨戦と言われる「伏見城の戦い」はあまりご存じない方も多かったと思います。

家康の幼いころからの忠臣・鳥居元忠が、命を投げうって徳川のために戦い抜いたんです。

この伏見城の戦いを経て、天下分け目の戦いが関ヶ原で行われて、見事家康率いる東軍は勝利することになります。

鳥居元忠がいなければ、家康が関ヶ原で勝利することも無かったかもしれませんよね!

そんな鳥居元忠の活躍が見られる、第41回、42回をぜひ皆さんご期待ください。

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