茶々の子供の鶴松と豊臣秀頼の最後と死因とは?衝撃の生涯まとめ!

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2023年NHK大河ドラマ「どうする家康(どうするいえやす)」は、松本潤さん演じる徳川家康の波乱万丈の生涯を描いた作品です。

物語も後半戦に突入し、9月24日の放送ではラスボス的存在?になりそうな北川景子さん演じる茶々(ちゃちゃ)が登場しました。

後に淀殿(よどどの)と呼ばれる茶々は、今後のストーリーのキーパーソンとなること間違いなしですね。

そんな茶々ですが、2023年10月1日放送の第37回では豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子供を産むことになります。

その名は鶴松(つるまつ)で、茶々と秀吉との間に生まれた子供・息子の生涯が気になっている方も多いと思います。

また2人目の茶々の子供・豊臣秀頼(とよとみひでより)もどのような生涯を送ったのでしょうか??

今回は大河ドラマ「どうする家康」の茶々の子供「鶴松」「豊臣秀頼」の最期や死因、その生涯についてご紹介します。

目次

茶々の子供の鶴松が誕生のネタバレとは?どうする家康37回!

茶々と秀吉の年齢差や関係・仲は良好だった?

茶々が秀吉との子・鶴松を産んだ。勢いづく秀吉(ムロツヨシ)は、北条攻めを決定。和平を主張する家康に秀吉は先陣を命じ、勝てば北条領を全て与えると言う。しかし、それは故郷・三河を離れることでもあった。家康は家臣たちに事情を話せないまま、出陣を命じる。秀吉が20万もの大軍で小田原城を包囲する中、家康は氏政(駿河太郎)に降伏を促すが、全く応じようとしない。氏政には関東の雄としての意地があった。

引用元:公式サイト

どうする家康第37回「さらば三河家臣団」では、豊臣秀吉による北条攻めと、家康の関東移封が描かれる感じです。

さらに前回衝撃的な初登場となった、北川景子さん演じる茶々がなんと秀吉の側室となっていたことが判明!

ツイッターでは、その年齢差が話題になっていましたが。

茶々と秀吉の年齢差や関係・仲は良好だった?

そして茶々が秀吉との子供を産むという展開に!!

それにしても初登場の北川景子さん演じる大人の茶々、ばっちり化粧で銃をぶっ放すという衝撃のキャラでしたね(;^_^A

今後何かをやってくれそうな予感がする登場シーンにSNSも大盛り上がりでした。

そんな茶々が生んだ男児の名前は鶴松(つるまつ)です。

この鶴松が、後々徳川家康が滅ぼすことになる豊臣家の嫡男・秀頼になるのでしょうか?今後が気になる方も多いと思います。

今回は秀吉と茶々の長男・鶴松についての史実をご紹介していきます。

茶々の子供の1人目・鶴松の最後と死因とは?生涯まとめ!

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茶々と秀吉の息子・鶴松は、天正17年(1589年)に誕生しています。

秀吉には寧々という正室、ほかにも多くの側室がいたものの、子宝には恵まれませんでした。

一説には、南殿という側室に男児が誕生したものの、若くして亡くなったとされています。

茶々が懐妊した際、秀吉は50歳を超えており、かなりの喜びようだったとか。

それを裏付けるかのように、弟の秀長に茶々が子供を産むための城を淀に作るよう指示します。

この「淀城」が由来となり、茶々は後に「淀殿(よどどの)」と呼ばれるようになるんですよね!

そして無事に茶々は男児を出産。

生まれたばかりの子供は「捨(すて)」と名付けられました。

そのころ、捨て子は健やかに育つと言われていたため、それに肖ったとされています。

後に名前を「鶴松」と改めて、秀吉は鶴松を正当な後継者と位置付けました。

そして鶴松は大坂から、秀吉が本拠地を置いた京の聚楽第(じゅらくてい)に移ることになります。

そのとき鶴松は3か月。かなり大変な移動だったかもしれませんね。

翌年の天正18年(1590年)には、秀吉は北条攻めのため、現在の神奈川県である相模国小田原に向かいました。

途中で茶々を呼び出し、茶々も小田原に赴きますが、なんとそのとき鶴松が体調を崩してしまうのです。

そのときはなんとか体調を回復した鶴松。

しかし、再び翌年天正19年(1591年)年明け早々に体調を崩してしまいました。

一度は回復の兆しが見えるも、夏になると病状が悪化します。

そして8月5日に鶴松は、2歳と数か月という年齢で亡くなってしまったのです。

死因は詳しいことは分かりませんが、元々病弱だったと言われています。

秀吉と茶々の最初の子供は、豊臣秀頼ではなく、亡くなっていたんですね((+_+))

当時としては、このように幼いころに亡くなってしまうことは、よくある話だったのかもしれません。

それから数年後、再び茶々は懐妊し、豊臣秀頼が誕生することになるんです!

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文禄2年(1593年)、再び茶々が懐妊します。

そして生まれたのは男児でした。

今度はこの子に拾(ひろい)と名付け、のちに豊臣秀頼と名乗ることになりました。

後継者として位置づけますが、間もなく秀吉は亡くなってしまいます。

生前秀吉は五大老の一人でもあった徳川家康に秀頼の行く末を託しますが・・・

そののち、石田三成と徳川家康が対立し、関ヶ原の戦いが勃発!!

皆さんご存じかと思いますが、勝利したのは徳川家康でした。

秀頼と茶々こと淀殿は、中立の立場をとったためお咎めを受けることはありませんでしたが、このときから明らかに力関係は徳川側が上となっていきます。

そして江戸幕府を開いた家康は、虎視眈々と豊臣家を潰そうと目論見、1615年の大坂の陣につながっていくというわけです。

史実では、家康によって茶々と秀頼が自害に追い込まれていく結末となります。

その後家康は江戸に幕府を作り、征夷大将軍となります。

淀殿はのちに家康は将軍職を秀頼に譲るだろうと思っていたのですが、2代将軍となったのは家康の息子の秀忠でした。

このころから家康は豊臣家に臣従を求めますが、淀殿は到底受け入れることが出来ず、対立が深まっていきます。

幕府安泰の為、戦の火種となる豊臣家をなんとか滅ぼしたい家康。

16914年に秀頼が京都方広寺大仏再興に際して鋳造した鐘の文言にいちゃもんを付けました。

「国家安康」「君臣豊楽」

家康の名前が分断されている!

これは豊臣家が、徳川家をないがしろにしていることを意味する。

秀頼としては全くそんな意図は無かったのですが、家康のこの言いがかりをきっかけに、徳川と豊臣のバトルが勃発。

世に言う「大坂の陣」ですね。

豊臣側には真田信繫らが付いたものの、旧豊臣恩顧の大名たちはこぞって徳川方につき、戦は徳川方優位に進みます。

そして「大坂冬の陣」ののち、一時は和睦をした両者。

しかし徳川方は、大坂城の堀を埋めることを和睦の条件にしました。

丸裸の状態となった大坂城をすかさず攻めることにした家康!

真田信繁が「真田丸」という城を作り、徳川方と対峙しますが、豊臣方が盛り返すことは出来ませんでした。

これが世に言う「大坂夏の陣」です。

敗北を悟った淀殿と秀頼は共に大阪城で自害しました。

この時秀頼はまだ23歳という若さ。

そして茶々こと淀殿は、48歳でした。

ということで、淀殿は自ら命を絶つという最期です。

「どうする家康」でも後半に向けて、淀殿とその息子・豊臣秀頼がラスボス敵存在になっていくのだと思います。

ちなみに秀頼を演じるのは、ジャニーズの作間龍斗さんですね。

この二人を最期まで支え続ける武将・大野治長を玉山鉄二さんが演じることも明らかになっています。

ちなみにこの大野治長が、実は秀頼の本当の父親なのでは?という説もあるんですよね。

秀吉はこれまで多くの側室を持ちながらも、子供をもうけることがありませんでした。

おそらく秀吉側に何らかの原因があったのかもしれません。

それにもかかわらず、茶々は2人の男の子をもうけました。

なんか怪しいですよね・・・(;^_^A

茶々は母親の市を、秀吉によって失ったという過去があります。

そんな茶々が仇である秀吉の側室になったのが疑問ですが、豊臣家を乗っ取って復讐するためとか?

秀吉に種が無いことを知って、ほかの男と関係を持って子をなした可能性も??

その相手が大野治長、ほかにも石田三成だったのでは?なんて説もあるそう。

まああくまでも根拠がないため、憶測にすぎないのですが・・・

「どうする家康」では、玉山鉄二さんという大物を配しているので、大野治長と茶々とのロマンスが有った?なんて描かれ方も期待しちゃいますね!

また茶々による秀吉への陰謀説なども描かれる可能性もあるのでは?と個人的に思ってしまいます。

茶々の子供の鶴松の最後と死因まとめ

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今回は「どうする家康」の茶々の子供・鶴松の最期と死因についてご紹介しました。

秀吉と茶々の長男・鶴松は、元々病弱だったため2歳という若さで亡くなってしまいます。

それから数年後、再び茶々は懐妊し、のちの豊臣秀頼となる拾(ひろい)を産むことになります。

私も以前、茶々と秀吉の最初の子供が秀頼になると思っていたのですが、実は2番目の子で、最初の子供は早くに亡くなっていたんですよね。

「どうする家康」でも、鶴松の死、そして秀頼誕生はしっかりと描かれると思いますので、皆さんご期待ください!

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