古関裕而のラジオドラマ【鐘の鳴る丘】の実話の史実とは?

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古関裕而(こせきゆうじ)さんはNHK朝ドラ「エール(えーる)」で、窪田正孝(くぼたまさたか)さん演じる主人公、古山裕一(こやまゆういち)のモデルとなる作曲家です。

これまでもかなり史実に忠実に描かれてきた「エール」。

これから裕一はラジオドラマ「鐘の鳴る丘(かねのなるおか)」の音楽を手掛けることになります。

実在の劇作家の菊田一夫さんをモデルにしている池田二郎(北村有起哉)が熱く裕一をラジオドラマの世界に誘います。

古関裕而さんも史実では菊田一夫さんとともに「鐘の鳴る丘」を手掛けました。

今回は朝ドラ「エール」に登場するラジオドラマの「鐘の鳴る丘」と古関裕而さんに関する実話について史実を詳しくご紹介させていただきます。

「鐘の鳴る丘」が制作されることになったのには、とても意外な事実がありました!

目次

古関裕而とラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の実話の史実!

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「鐘の鳴る丘」は1947年7月5日から、1950年12月29日までNHKラジオで放送されたラジオドラマです。

放送回数は、なんと790回!すごいですね~。

だんだんと菊田一夫さんの脚本が遅れがちになり(^_^;)、当時は生演奏で放送していたため、オルガン奏者の伴奏が間に合わず、途中からは古関裕而さんご本人がオルガンを弾いたという逸話があります。

もう即興演奏に近かったのでしょうかね?(^_^;)

脚本は劇作家の菊田一夫さん。そして音楽を担当したのが古関裕而さんでした。

「エール」で菊田一夫さんをモデルとした人物が、北村有起哉さん演じる池田二郎。

「エール」では戦争が終わり、みんなを戦争に駆り立てる曲を作曲した作曲家、と陰でうわさされ、裕一は傷つきます。

これも実話で、古関裕而さんもそんな批判を受けました。

また古関裕而さんご自身もご自身が作曲した、予科練の歌として知られる「若鷲の歌」でたくさんの若者が予科練に志願し、多くが命を落としたことに心を傷めていました。

「エール」ではハーモニカ少年だったひろやくんが予科練に志願し、戦死してしまいました(T_T)

「エール」の裕一のように曲が書けなくなった、という事実があったかどうかはわかりません。

ですが戦後は多くの明るい楽曲で、庶民を元気づけます。

そのスタートがこの「鐘の鳴る丘」でした。

主題歌は「とんがり帽子」。か~ねが鳴りますキンコンカ~ン♪、のあの歌ですね(^^)

当時主題歌は古関裕而さんのハモンドオルガンで流れ、子どもたちから大人気となります♪

こんな書籍も発売されています。

当時の様子を伺い知ることができそうですね!

ちなみにそのときに使われたハモンドオルガンは、現在福島の「古関裕而記念館」にあるそうです。

さてラジオドラマですが、当時はまだテレビがなく庶民の娯楽はラジオでした。

ラジオドラマは「君の名は」「青空」など多くの名作を放送しています。

「鐘の鳴る丘」は当初毎週土日に15分ずつ放送されていましたが、1950年からは毎週月曜日から金曜日まで放送されるように。

夕方5時15分から放送され、大人も子供もみんな夢中になって聞いていたそうです(^^)

「鐘の鳴る丘」は当時社会問題になっていた、戦争孤児や浮浪児たちを題材にしています。

さて、どうしてこのようなドラマが放送されるようになったのでしょうか?

 

 

古関裕而が音楽担当の「鐘の鳴る丘」が制作されることになった理由は?

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CIEが戦災孤児や浮浪児を救済?

「鐘の鳴る丘」は、CIEが浮浪児救済問題を取り上げる企画を立てたことで制作されました。

CIEとは民間情報教育局のことで、戦争で日本に勝った連合国軍による、日本統治のための組織です。

GHQの組織のひとつで、教育や宗教、芸術などを担当していました。

NHKはCIEの言うとおりに、放送するようになります。

そのCIEが浮浪児救済問題を取り上げようと考えていたころに、日本にフラナガン神父がやってきます。

フラナガン神父はGHQのマッカーサー元帥から、戦災孤児や浮浪児たちへの対策について助言をするために日本に呼ばれました。

赤い羽根募金もこのフラナガン神父によってスタートしています。

そうしてスタートしたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」。

最初は脚本の菊田さんとCIEで15分という時間でもめたそうです(^_^;)

短すぎる、という菊田さん。ですがリスナーを飽きさせない時間だ、と譲らないCIE。

当然菊田さんが折れるしかありません。

ですが15分は結果オーライだったようです。朝ドラが15分なのも、ここからきているのでしょうか?

「エール」では曲が書けなくなった裕一に、池田は「苦しんでいる子供たちを励ましてほしい」と、「とんがり帽子」の歌詞を渡します。

その歌詞を読んだ裕一はメロディが浮かびます。

実際にはそのような事実があったという記録は見当たりませんでした。

とんがり帽子

ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌は「とんがり帽子」♪

1番の歌詞です。

緑の丘の赤い屋根
とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン

メーメー子山羊も啼いてます
風がそよそよ丘の家
黄色いお窓は俺らの家よ

最後の4番目の歌詞には「あしたはもっと しあわせに」というフレーズが出てきます。

そう思わせてくれる、明るく元気な楽曲。

作詞は菊田一夫さん、作曲は古関裕而さんです。

歌っているのはとっても元気な女の子、人気の童謡歌手だった川田正子さん。13歳のころでした。

明るく元気な歌声が、日本人の心を元気づけ、娯楽に飢えていた庶民たちから絶大な人気となります。

ということで、「鐘の鳴る丘」はGHQの部署であるCIEが戦災孤児や浮浪児を救済するために作ったラジオドラマでした。

さて、どんな内容なのでしょうか(≧∇≦)

 

 

ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」のストーリーは?

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「鐘の鳴る丘」は戦災孤児や浮浪児救済のためにCIEが企画したラジオドラマ。

舞台となる「鐘の鳴る丘」は、孤児たちと復員してきた主人公たちが一緒に暮らすことになる場所です。

ここがモデルとされていうようですね。

タイトルの「鐘の鳴る丘」は、みんなが暮らすことになる建物が、三角の屋根がついた鐘のある建物が丘にあることからきています。

主人公は加賀美修平。戦争から役目を終え、戻ってきた青年です。

修平は戦争で両親を失い、弟の修吉は孤児収容所に入っていました。

東京に修吉を迎えに来た修平。そこでは戦災孤児たちが、街頭で靴磨きなどをしながら暮らしていました。

「なつぞら」覚えてますか?ヒロインなつと兄、妹も戦争で両親を失い、戦後靴磨きをして暮らしていましたよね。

戦後は日本中に十数万人という戦災孤児たちがいたそうです(>_<) その多くは戦争で家も家族も失ったこどもたち(>_<)

そのときは大人も食べていくのがやっとで、救済の手はなかなか伸びなかったのです。

そんな様子を見て修平はその子たちのために、自分の故郷、信州に住むところを作ってあげたいと決意します。

そしてとうとうその少年たちと「少年の家」を作り、みんなで共同生活を始めました。

というお話です。

暗い背景でありながらも、仲間との協力のもと力強く生きていきます。

1948年には映画化もされ、第2作、第3作と続きました。

そんなラジオドラマ「鐘の鳴る丘」のストーリーがこれから描かれます。

戦争の暗い時代もそろそろ終わりそうですね。

裕一の復活劇、どう描かれるのか楽しみです(≧∇≦)

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古関裕而さんが音楽を担当された、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」のエピソードがこれから「エール」で描かれます。

鐘の鳴る丘にあるのは、孤児たちのための施設で三角の屋根がついた鐘のある建物。

復員してきた青年と戦災孤児たちが、一緒に作り上げることになります。

史実でも戦災孤児や浮浪児が十数万人いたという当時の日本。

終戦となっても、まだまだ戦争の影が残ります。

そんな庶民の心をとらえたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」。

主題歌「とんがり帽子」とともに、その制作秘話をお楽しみください(^^)

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