紺碧の空の作詞家は住治男で早稲田大学の学生の実話

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NHK朝ドラ「エール」に登場する「紺碧の空(こんぺきのそら)」は早稲田大学応援歌で、作詞家は当時早稲田の学生だった住治男(すみはるお)さん。そして作曲はまだ当時は無名だった古関裕而(こせきゆうじ)さんによるものです。

古関裕而は朝ドラ「エール」の主人公の古山裕一のモデルになった有名作曲家さんですね。

今回は作詞者の住治男さんを中心に応援歌の「紺碧の空」について調べてみました。

現在朝ドラ「エール」ではこの「紺碧の空」誕生秘話が描かれていますが、実話はどうだったのでしょうか?

早稲田大学応援部による「紺碧の空」演奏動画や、歌詞も掲載しました。素晴らしい詩を改めてご覧ください!

目次

作詞家は住治男による「紺碧の空」とは?誕生した実話とは?

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紺碧の空という曲について

「紺碧の空」とはこんな曲です♪

力強くてまさに応援歌といった曲ですね。

そして作詞者の住治男さんによる歌詞がこちらになります。

「紺碧の空」
作詞・住 治男  作曲・古関裕而 

 

紺碧の空 仰ぐ日輪
光輝あまねき 伝統のもと
すぐりし精鋭 闘志は燃えて
理想の王座を占むる者 われ等
早稲田 早稲田
覇者 覇者 早稲田

 

青春の時 望む栄光
威力敵無き 精華の誇
見よこの陣頭 歓喜あふれて
理想の王座を占むる者 われ等
早稲田 早稲田
覇者 覇者 早稲田

早稲田大学応援部が演奏すると、こうなります。

このチアリーディングの中に、過去には、NHKの近江アナがいたと思うと感慨深いです。

先頭にいるのは応援団長でしょうか?「エール」で団長の田中隆を演じている三浦貴大さんに見えてきました(笑)

朝ドラ「エール」の早稲田応援団と古山裕一(窪田正孝)の話は、ほぼ実話に忠実に描かれています。

では早稲田大学応援歌「紺碧の空」の誕生物語をご紹介します。

早稲田応援歌が作られた理由

早稲田大学応援歌の紺碧の空は古関裕而の実話なの?

「紺碧の歌」が作られたのは1931年。このころはまだプロ野球がなく、もちろんテレビも普及していません。

ようやくラジオが一般家庭に普及し始めていて、庶民は六大学野球の試合に夢中になりました。このころの選手は、のちに野球殿堂入りした選手も多かったようです。

中でも早稲田大学と慶応義塾大学の試合は「早慶戦」と呼ばれ人気のカードに。

早稲田は1927年と1928年に慶応に全敗。1930年は五分五分に持ち込みましたが、1931年になると春夏で早稲田は4連敗。

慶応の勝利の秘密は、1927年に作られた慶応の応援歌「若き血」にありました。

初めてこの曲が演奏された早慶戦では、慶応が早稲田を6対0で完封勝利。2回戦も3対0とまたもや完封しています。

これをうけ、当時乱立していた早稲田応援部を統一し、新応援団を結成することに。

この新応援団が新しく応援歌を作ることにしたのです。それも画期的な応援歌を!

 

 

作詞者は住治男で曲は古関裕而

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まずは詩を学校内で募集します。その中から当時教授をしていた詩人の西條八十さんが「紺碧の空」を選出。

一字の修正も加える必要がない

そう評価されたのは、当時早稲田大学3年生だった住治男さんの書いた詩でした。

問題は曲。「若き血」を上回るような曲でなくてはなりません。

詩を選曲した西條八十さんはこう言っって詩を応援団に渡しました。

いい詩だが作曲が難しい。山田耕筰や中山晋平など大物に依頼しないとだめだよ

そんなとき応援団にいた伊藤戊さんという人物が、ある作曲家を紹介します。

それが古山裕一のモデルである古関裕而さん。

伊藤戊さんの従弟は伊藤久男さん。佐藤久志(山崎育三郎)のモデルです。

当時伊藤久男さんと古関裕而さんは友人関係にあり、伊藤戊さんが強く古関裕而さんをプッシュしたといわれています。

このとき古関裕而さんは21歳。日本コロムビアに所属はしていましたが、「エール」と同じようにまったく無名の存在でした。

 

 

苦悩した曲作りは住治男の詩が・・・

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引き受けた古関裕而さんも「名誉なこと」と快諾したそうですが、なかなかリズムが浮かばず・・・。

特に「覇者 覇者 早稲田」の旋律は何度も書き直したそうです。

住治男さんの詞を選んだ一人の当時の早稲田大学文学部の教授で詩人の西條八十はこういったそうです。

「ほとんど訂正するところのない素晴らしい作詞だ。ただ【覇者、覇者、早稲田】というところは気にかかる。きっと作曲上、

難しい難しいだろうから、これは相当の謝礼金を積んで山田耕作とか中山晋平といった大家に依頼しなくてはだめだ」と。

もちろん、詩の内容は素晴らしいのですが、難易度の高い詩だったことがわかります。

「エール」でも「覇者のはの発音が弱い」と困っていましたよね。

発表会が近づくと、応援団幹部が毎日古関家を訪れたそうです。そして完成したのが発表会の3日前。

「紺碧の空」の応援歌で、早稲田は見事勝利をおさめます。

このとき早稲田の第6応援歌だったそうですが、すぐに第1応援歌に昇格。これにより古関裕而さんの名前も知られるようになりました。

早稲田応援部にとっても、古関裕而さんにとっても、幸運をもたらした「紺碧の空」。

さて、この詩を書いた住治男さんとはどのような人物だったのでしょうか?

 

 

紺碧の空の作詞者は早稲田大学学生の住治男?どんな人物?

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「紺碧の空」の作詞家は、当時早稲田大学3年生の住治男(すみはるお)さん。

古関裕而さんと同い年ということなので、1909年生まれ、当時21歳でした。

詩の募集は全生徒から募り、その中で選ばれたのが住治男さんです。

「エール」で古山裕一が悩んでいるのが「覇者 覇者 早稲田」の部分ですが、音楽評論家で早稲田出身のスージー鈴木さんは取材でこんなことを語っています。

在学時はことあるごとに「紺碧の空」を歌わされ辟易していた。
でも覇者、覇者、早稲田のところで晴れやかな感覚になった

早稲田にとっては「紺碧の空」は応援歌というより、テーマソングに近いのでしょうか(^_^;)

この「紺碧の空」の評判は全国区へと広がりました。

作曲した古関裕而さんは、「紺碧の空の作曲者」としてそのご仕事が舞い込んだそうです。

一方住治男さんはというと、作詞をされたのはこの1曲だけのようですね。

住治男さんはこの6年後、27歳(28歳説も)という若さで肺結核によりお亡くなりになり、詳しい情報は得られませんでした。

古関裕而さんは、歌指導でこんな説明をしたそうです。

「すぐりし精鋭」は一語一語す・ぐ・り・し~と歌い、「覇者、覇者」は元気に

この「覇者。覇者」はスージー鈴木さんによると「はっしゃ、はっしゃ」と歌っていたとか(笑)

早稲田新応援団渉外係の土倉さんは、自分の小遣いでWASEDAのペナントを2つ買い、古関裕而さんと住治男さんに贈られたそうです。

「紺碧の空」は90年近く経った今でも、早稲田応援歌として歌い継がれています。

住治男さんは病に倒れなければ、作詞家や詩人、または作家として活躍されたのしれませんね。

ところでみなさん、紺碧の意味をご存知ですか?実はわたしは知りませんでした(^_^;)

深く濃い青色、のことなんだそうです。

紺碧の空とは、濃く美しい青空という意味です。なんだか青春そのまんまのイメージですね♪

21歳の若き天才たちがつくった「紺碧の空」。この曲には当時の応援団の方たちの熱い思いも込められています。

「紺碧の空」が「エール」でかかるのを楽しみにしています♪

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「紺碧の空」はそれまで負け続けていた野球部のため、早稲田応援部が制作することにした応援歌。

先に「若き血」という応援歌で躍進を続けていた慶応に対抗するためです。

作詞は学生から公募し、3年生の住治男さんの「紺碧の空」が西條八十先生によって選考されました。

作曲は住治男さんと同じ年の、当時無名だった古関裕而さん。

この「紺碧の空」で野球部は勝利することができました。

「紺碧の空」誕生物語は、「エール」で描かれていることがほぼ実話となっています。

現在も早稲田の応援歌になっている「紺碧の空」。早稲田大学大隈庭園内に記念碑があるそうです。

90年もずっと親しまれてきた「紺碧の空」。作詞をされた住治男さんも天国で喜んでおられるのではないでしょうか。

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