武田勝頼の死因や最後とは?強すぎる大将は実話?

  • URLをコピーしました!
#ad #PR #スポンサー

NHK大河ドラマ「どうする家康(どうするいえやす)」は、物語も中盤に差し掛かり、徳川家康と武田信玄の戦い「三方ヶ原合戦」が描かれます。

魅力的なキャスト陣が続々登場していますが、2023年4月30日の放送から眞栄田郷敦(まえだごうどん)さん演じる武田勝頼(たけだかつより)が登場しましたね。

阿部寛さん演じる武田信玄の息子の勝頼ですが、初登場からかなり強そうでした!!

これから松本潤さん演じる家康を大いに苦しめる存在になりそうな予感がします。

そんな眞栄田郷敦さん演じる武田勝頼のその後が気になる方も多いと思います。

信玄の死後、跡を継いだ勝頼にはどのような運命が待ち受けているのでしょうか?

今回は大河ドラマの「どうする家康」の武田勝頼の死因や最後について史実をネタバレも含めてご紹介します。

また大河ドラマ「どうする家康」で見せた強さ、強すぎる大将と言われたのは、実話なのか?についてもご紹介していきます。

目次

武田勝頼は信玄の血を引く、強い若き猛将!

眞栄田郷敦さん演じる武田勝頼は、第16回「信玄を怒らせるな」から登場しました。

以下、公式サイトの人物紹介です。

武田信玄の若き後継者。幼いころから信玄に厳しく育てられた強靭な体力と精神の持ち主。

父の知略・軍略の才を受け継ぎ、武田家史上最大まで領地を広げる。

三方ヶ原の戦いで壊滅的な打撃を与えた徳川をさらに追い詰める。

引用元:公式サイト

個人的には、眞栄田郷敦さんの勝頼かなりかっこよかったと思います!

かつて父である千葉真一さんは「風林火山」で武田の家臣・板垣信方を演じていました。

時を経て、息子の郷敦さんが武田勝頼を演じるなんて、大河ドラマ好きとしてはうれしい限りですね。

第16回では長尾謙杜さん演じる家康の弟・松平源三郎勝俊も登場しましたが、源三郎は徳川からの人質として武田家に身を寄せていました。

松平源三郎勝俊の死因や最後は?家康の弟は2度の人質生活?

源三郎もかなり厳しい訓練をされていた様子ですが、源三郎曰く勝頼はさらに厳しい修練を受けていたとのことでした。

阿部寛さん演じる信玄もかなり強そうなので、郷敦さん演じる勝頼も強いと思います!

あの千葉真一さんの息子さんですからね(^^)/

「どうする家康」では、今後「三方ヶ原の戦い」「高天神城の戦い」などで家康を大いに苦しめる存在になりそうです。

そんな武田勝頼の生涯について以降でご紹介したいと思います。

武田勝頼は強いけど信玄の跡取りでは無かった?強すぎる大将は実話?

井伊虎松役【直政】は板垣李光人!どうする家康で正体ネタバレも

武田勝頼は1546年に武田信玄の4男として生まれます。

母親は信州・諏訪の姫で、もともとは甲斐武田家の跡取りではありませんでした。

勝頼の武将としての強さ、技量は父である信玄から認められていたそうです。

戦国大名武田信玄、勝頼二代にわたる甲州武士の事績、心構え、軍法、合戦などが記された「甲陽軍鑑」では、勝頼を「強すぎたる大将」と記されていたそうです。

しかし、勝頼側近の安倍加賀守宗貞には「ただ強すぎて今明年の内に討死なさるべきかと存ずる」などと言われていたとのこと。

しかし跡取りは別でした。

1562年に信州伊那群高遠城の城代として、諏訪四郎勝頼と名乗ることに。

しかし、1565年に信玄の嫡男・義信が謀反を画策したことで、信玄は我が子を自害させてしまいます。

義信の死後、次男の武田信親は盲目で寺に入っており、3男「武田信之」は早世してしまっていたため、勝頼に跡目が回ってきたのです。

そして三方ヶ原の戦いの直後、1573年に武田信玄は死去してしまいます。

勝頼はその家督を継ぐことになるのですが、信玄は自らの死を3年間隠すようにと遺言を残していました

そのため、表向きには「武田信玄は隠居し、武田勝頼が家督を相続した」と発表していたそうです。

その後、勝頼は父・信玄の悲願だった京を目指す「西上作戦」をさらに続けていきます。

信玄が落とせなかった遠江の高天神城を陥落させるなど、領地を広げていきました。

さらに、商・職人の城下集住策が継続されるとともに、領国内の升や秤といった度量衡が統一されて、生産・流通の統制が強化する経済政策なども実行した勝頼。

武田家の跡継ぎとして着々と力をつけていくのですが、勝頼は家臣からの信頼が薄かったと言われているんです。

その理由は、勝頼が武田と敵対した諏訪の血をひくものだったから。

武田家には、独立心の旺盛な家臣が多く、武田信玄のカリスマ性がその結束を束ねていました。

信玄の死後、家臣達の統率は困難を極めていき、世に有名な「長篠の戦い」に敗北したことで武田家の状況は悪化の一途を辿っていきます。

武田勝頼の死因や最後とは?戦いに敗れて自害?

そして武田勝頼の死因や最後についてご紹介です。

1575年「長篠の戦い」にて、織田・徳川の連合軍に大敗した武田勝頼。

赤備えで知られる山県昌景ら重臣を失い、武田軍は10,000人以上の死傷者を出したと言われています。

山県昌景は「どうする家康」では橋本さとしさんが演じていますね。

その後、勝頼は小田原北条家から妻を迎え入れて、北条との関係性を強化していきました。

しかし、北の越後では上杉謙信が死去し跡目争いが発生!

世にいう「御舘の乱」ですが、勝頼はその和睦に乗り出して、上杉景勝が跡を継ぐことを支持しました。

すると対立する候補を支持していた北条家との関係が悪化してしまうのです。

この勝頼の判断が武田の力をさらに弱めてしまいました。

上杉と手を結ぶのと引き換えに、織田、徳川、北条を敵に回してしまう結果に・・・

高天神城も徳川から奪い返されてしまい、北条からも攻められて武田氏の威信は地に堕ちてしまいます。

武田一族の重鎮だった穴山梅雪が徳川方に内通するなど、離反していく者が続出してしまいました。

穴山梅雪を演じるのは田辺誠一さんですね!

その後勝頼は、甲府から撤退して韮崎の地に新府城を築き武田家の立て直しを図るも時すでに遅し。

1582年には、家康・信長の連合軍による甲州征伐によって、新府城も捨てることになってしまいます。

家臣の真田昌幸は自らの領地である上田に行くよう勧めますが、勝頼が選んだのは小山田信茂の領地・都留でした。

しかしその道中で小山田の裏切りにあい、織田軍に撃たれてしまう勝頼。

もはやこれまでと思った勝頼は、天目山の地で一族とともに自害して果てたと言われています。

享年37歳。400年続いた名門武田家はここに滅亡してしまったのです。

勝頼の墓は、山梨県甲州市の景徳院にあります。

境内には、山内近くに自刃した勝頼、夫人、息子・信勝の生害石や墓が並び、将平や待女合わせて50名の墓があるそうです。

武田勝頼の死因や最後まとめ

瀬名姫の死因と最後の史実が衝撃!【どうする家康】

今回は「どうする家康」で眞栄田郷敦さん演じる武田勝頼の死因や最後についてご紹介しました。

信玄亡き後武田を率いた勝頼は、高天神城を落とすなど領地を広げていくものの、長篠の戦いで敗れたことで勢いを失っていきます。

そして家臣たちの裏切りにあったのち、甲斐の天目山にて37歳の若さで自害して果てたと言われています。

家康を大いに苦しめた勝頼ですが、最期は妻や息子と自害という悲しい末路が待っているんです((+_+))

そんな勝頼を眞栄田郷敦さんがどう演じてくれるのか楽しみですね。

まずは勝頼が家康を大いに追い詰める「三方ヶ原の戦い」がどう描かれるのか?

5月7日、14日放送の「どうする家康」を是非ご期待ください!!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次