小早川秀秋の関ヶ原のその後はどうなった?

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松本潤さん主演のNHK大河ドラマ「どうする家康」は関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が戦います。カギを握ると言われているのが小早川秀秋(こばやかわひであき)。小早川秀秋の関ヶ原の戦いとその後のネタバレ史実ご紹介します

目次

小早川秀秋は関ヶ原の戦いのキーマン?

どうする家康千代の最後の死因とは?どうなる?

小早川秀秋は関ヶ原の戦いのキーマン?

まずは11月5日放送の第42回「天下分け目」のあらすじを見ていきましょう。

上杉征伐に向かう家康(松本潤)のもとに、三成(中村七之助)挙兵の知らせが届いた。小山で軍議が開かれ、西国大名の多くが三成につく中、家康は天下分け目の戦に臨むため、西へ戻ると宣言する。秀忠(森崎ウィン)に真田昌幸(佐藤浩市)の攻略を任せ、江戸に戻った家康は、各国大名に応援を働きかける。一方、京では千代(古川琴音)とともに伏見城を守る鳥居元忠(音尾琢真)は、三成の大軍に囲まれ、最期の時を迎えていた。

引用元:公式サイト

石田三成(中村七之助)が挙兵したことで、徳川家康(松本潤)は上杉討伐を取りやめて京に向けて引き返すことになります。

世に有名な関ヶ原の戦いが幕を開けることになるのですが、三成率いる西軍、家康率いる東軍の勝敗を分けるキーマンとなる人物は誰なのか?

それは小早川秀秋(こばやかわひであき)で、どうする家康では若手俳優の嘉島陸さんが演じることが分かっています。

小早川秀秋と豊臣秀吉との関係は?

この小早川秀秋は、亡き豊臣秀吉(ムロツヨシ)の正室・寧々(和久井映見)の甥にあたります。

名門・小早川家に養子に入り、豊臣一門衆として筑前など35万石を預かる若き大名です!

この小早川秀秋が、関ヶ原の戦いの勝敗にどう影響していくのか?

以降で関ヶ原の戦いが描かれる11月12日放送の第43回のストーリーをネタバレ紹介します。

知りたくない方は閲覧ご注意くださいね。

小早川秀秋の関ヶ原の裏切りで東軍の勝利!

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関ヶ原の地には、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の兵たちが集まり、天下分け目の決戦の時を迎えています。

赤坂の陣所の家康はじっと関ヶ原の地図をにらみつけ、大垣城の石田三成は総大将の毛利輝元と豊臣秀頼を待ち籠城を決め込んでいました。

東軍の福島正則は大垣城に攻め込もうとしますが、井伊直政は秀忠の本軍が来るのを待つべきだと進言。

そのころ家康の息子・秀忠は、信濃の真田昌幸によって足止めを食らっていて、関ヶ原の本戦に間に合うのは難しい状況でした。

本軍が到着しないのは西軍も同じ。

家康はなんとかその前に決着を付けたいと考え、兵が足らなければ相手の兵を削ぐほかないと考えます。

調略を任せた黒田長政によると、内応をすでに約束している毛利一族の吉川広家(きっかわひろいえ)を通じて、小早川秀秋と毛利輝元に調略を繰り返しているが、蓋を開けてみるまでどうなるかは分からないという。

家康は秀忠を諦めて、大垣城を放って関ヶ原に向かう決断をしました。

関ヶ原にいるのは西軍の大谷吉継軍のみ。

夜、赤坂の陣を出た徳川軍が雨の中ゆっくり西に動き始めると、間を置かずに大垣城の石田三成らすべての軍勢が素早く城を出て西に向かいます。

西軍としては、先回りして関ヶ原にて東軍を迎え撃つ考えの様子。

夜が明けると雨が上がり、周囲山々に囲まれた関ケ原の地には、両陣営合わせて十五万の兵が集結しています。

東軍の家康は、小高い丘・桃配山に布陣。

背後を守るのは本多忠勝、前線には井伊直政軍。

他にも福島正則、藤堂高虎、黒田長政と歴戦の猛者らが敵を血祭りにあげようといきり立っています。

一方の西軍の三成は、関ケ原北西の笹尾山に布陣します。

周囲には三成の右腕の島左近、薩摩の島津義弘が付いています。

笹尾山の南に位置する天満山には、宇喜多秀家と小西行長の西軍主力部隊が鎮座。

さらにその南に三成の盟友・大谷吉継が陣を敷きます。

そこから南下して中山道を超えた松尾山には大軍を率いた小早川秀秋が布陣。

この小早川の動向が、関ケ原の戦いの結末を左右することになるのですが果たして?

そして西軍の吉川広家率いる毛利勢、土佐の長宗我部元親は、家康が布陣した桃配山の背後の南宮山に入ります。

三成は見事なまでに、徳川勢を取り囲むかたちで布陣することに成功しました。

このまま戦に突入すれば、東軍の負けは一目瞭然。

しかし家康は不思議と気分は悪くありません。

そし東軍の井伊直政が先陣を切ったことで、各地で激しい戦闘が始まります。

地の利を生かし、西軍が有利に進みますが、決定打となる松尾山の小早川秀秋は動く様子は無し。

吉川が家康の背後を突けば小早川も動くだろうが、吉川率いる毛利軍はのらりくらりと言い訳を付けて動こうとしません。

このとき家康が「前へ出る」と進軍を始め、西軍も予想外の行動に総がかりで攻め込んできました。

敵は怯み、味方の士気が上がる中、家康は松尾山を見上げています。

「決断する時ぞ、小早川」

かつて家康は姉川の戦いで、信長から鉄砲を撃ち込まれたことで、裏切ることなく信長に付くことを決断しました。

そのときと同じことを家康は小早川にやってのけたのです。

大筒を松尾山に撃とうという渡辺守綱に、「逆なでするな。天に向かって空撃ちせい」と家康は指示。

そして鉄砲隊が空に向かって一斉に空砲を撃つと・・・

ついに決断した小早川の大軍が一気に山を駆け下りて、大谷吉継軍に攻めかかります。

これがきっかけとなり、西軍は総崩れし寝返る者も多数。

こうして石田三成率いる西軍は敗北し、見事家康率いる東軍の大勝利となったのです。

小早川秀秋の関ヶ原のその後はどうなった?

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ここで東軍勝利の立役者でもある小早川秀秋の史実についてもご紹介します。

幼少の名前は辰之助で、寧々の兄・杉原家定の5男として1582年に誕生。

寧々にかわいがられ、秀吉の養子となり、その後毛利一族の小早川隆景の養子となり、筑前、肥後30万石を収めることになります。

このときまだ13歳で、小早川秀俊と名乗っていました。

隆景の死後、小早川を継ぎ名を秀秋に名を改めてからは、秀吉から領地を没収され、越前北ノ庄15万石に変えられてしまうという不遇も。

それから秀吉が死に、関ケ原の戦いでは、西軍を裏切り東軍に付いたことで勝利の立役者となりました。

家康が小早川隊に鉄砲を放ったエピソードについては諸説あるそうですが、どの大河ドラマでもこの逸話は描かれていますね!

そしてこの戦功により、敗軍の将となった宇喜多秀家の領地・備前国美作51万石を与えられた秀秋。

岡山城に入ったのちは、若いながらも城の外堀を20日間で作り直すなどの手腕を見せ、検地を実施するなど数々の功績を残します。

しかし、関ケ原から2年後の1602年に21歳という若さで亡くなってしまうのです。

その死因は、酒の飲み過ぎによる肝硬変。

一説には、関ケ原で小早川秀秋が裏切ったことで討ち死にした大谷吉継の祟りで死んだ?なんて言われているんだとか。

大谷吉継は関ヶ原で「人面獣心なり!三年の間に祟りをなさん」と呪いの言葉を秀秋に投げつけたとも・・・

個人的には、小早川秀秋が死の直前に大谷吉継の祟りに悩まされていた可能性もあるのかななんて思っています!

 

小早川秀秋の関ヶ原のその後まとめ

【どうする家康】最終回はいつ?何話まで放送?

今回は「どうする家康」で西軍を裏切って東軍に勝利をもたらした小早川秀秋についてご紹介しました。

東軍勝利の立役者と言っても過言ではない小早川秀秋ですが、わずか2年後に21歳でその生涯を閉じてしまいます。

酒の飲み過ぎによる肝硬変と言われていますが、関ヶ原で大谷吉継の恨みを買い祟りによって殺されたとも?

「どうする家康」ではその辺りが描かれるかは分かりませんが、忍成修吾さん演じる大谷吉継が、嘉島陸さん演じる小早川秀秋を祟りによって殺すシーンとががあったら衝撃ですね(;’∀’)

関ヶ原の小早川の裏切りが描かれるのは、11月12日放送の43回となります。皆さん是非ご期待ください!

 

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