於義丸【結城秀康】は双子?死因や最後についても

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2023年NHK大河ドラマ「どうする家康(どうするいえやす)」は、松本潤さん演じる徳川家康が生涯における様々な危機を乗り越えて、乱世を終わらせるまでを描いた奇跡の物語です。

物語も後半戦に突入し、家康と羽柴秀吉(はしば・ひでよし)とのバトルが繰り広げられています。

小牧・長久手の戦いで勝利した家康ですが、負けた秀吉は総大将の織田信雄(おだ・のぶかつ)と和睦してしまい戦う大義名分を失ってしまいました。

秀吉から和議の条件として提示されたのが、人質として養子をもらい受けること!

その養子となったのが、家康とお万の方の息子の於義丸(おぎまる)です。

のちに結城秀康(ゆうき・ひでやす)と呼ばれる武将ですが、史実では双子だった?とも言われているんですよね。

今回は「どうする家康」の於義丸【結城秀康】の双子説について紹介し、その生涯や死因や最後についてもご紹介します。

目次

は於義丸【結城秀康】は家康とお万の方の息子!

石川数正の死因と最期は?寝返りのその後はどうなった?

まずは於義丸【結城秀康】が登場する、8月27日放送第33回の公式のあらすじを見てみましょう。

家康(松本潤)は小牧長久手で秀吉(ムロツヨシ)に大勝。しかし秀吉は織田信雄(浜野謙太)を抱き込んで和議を迫り、さらに人質を求めてくる。その上、秀吉が関白に叙せられたという知らせが浜松に届き、家康は名代として数正(松重豊)を大坂城へ送る。そこで数正は、改めて秀吉の恐ろしさを痛感。徳川を苦しめる真田昌幸(佐藤浩市)の裏にも秀吉の影を感じた数正は、決死の進言をするが、家康の秀吉に対する憎しみは深く――。

引用元:公式サイト

ムロツヨシさん演じる秀吉は、家康に対して和議の証として人質を求めてきます。

あらすじ内には記載されていませんが、この人質として白羽の矢が立ったのが於義丸(おぎまる)です。

ちなみに於義丸とは、家康とお万の方の間に生まれた子供。

第19回で、家康が浮気をしてしまったストーリーがありましたよね(;^_^A

松井玲奈さん演じる妖艶なお万の方と関係を持ってしまい、お万の方は身ごもります。

そして生まれた男児が、於義丸なんです!

お万の方は瀬名【築山殿】の侍女で恐怖の制裁を受けた史実?

お万の方は「いつか殿の役に立てる子供となるよう立派に育てる」と宣言して家康のもとを去りましたが、息子とともに今回久しぶりの登場となります!

以降で、第33回の於義丸とお万の方の登場シーンを先取りご紹介します。

於義丸【結城秀康】は双子?秀吉の人質に!

秀吉から和議の証として、養子をもらい受けたいと言われた家康。

養子とは、体のいい人質と同然。

家臣たちの反対も多い中、家康はこの申し出を受け入れることにしました。

於愛(広瀬アリス)が生んだ、長丸(のちの徳川秀忠)と、福松(のちの松平忠吉)は人質に出すには幼い。

そこでかつて家康が瀬名(有村架純)の侍女だったお万(松井玲奈)に産ませた於義丸に白羽が立ったのです!

家康と於義丸の対面はかなり久しぶりだったようで・・・

「大きくなったな、於義丸」

家康のそんな言葉に於義丸は利発な物言いで返答しました。

「ご両家のお役に立てるのは、至上の喜びにございます」

母のお万の方とともに、武家の息子として覚悟を決めた様子の於義丸。

そして、石川数正(松重豊)の申し出により、供の一人に数正の次男・勝千代が小姓として付き添うことになり、於義丸は秀吉のもとに養子として送られるのでした。

おそらく、第33回の於義丸はまだ子役だと思われますね。

於義丸は成長後「結城秀康」と名乗ることになるのですが、演じるのは若手俳優の岐洲匠(きずたくみ)さんであることが発表されています。

そんな於義丸こと、結城秀康は史実では双子だった?とも言われています。

ドラマ内では双子について描かれるかはまだ分かりませんが、おそらく双子のことは今回は触れられないのではと予想します。

気になる於義丸の双子説については以降でご紹介します!

於義丸【結城秀康】は双子説と死因や最後についても

2023年5月には、結城秀康ゆかりの地「茨城県結城市」では、結城秀康展も行われていました!

結城秀康の幼名は「於義丸」で、1574年に徳川家康とお万の方のもとに生まれました。

一説には、このとき生まれたのは双子だったと言われているんです。

しかし当時、双子は「畜生腹(ちくしょうばら)」と忌み嫌われるものだったそう。

そのため生まれたもう一人の子供は、お万の実家の永見家に養子に出されてしまいます。

弟は永見貞愛(ながみ さだちか)と名乗りました。

実子と認められなかったため、表向きは早死にしたことにされ、お万の実家である永見家に引き取られた後に、知立神社の神職を継いだとされています。

その後1604年に死去。享年31歳で、秀康よりも3年も早くに亡くなっていたようです。

そして兄の於義丸は、家康の息子として認められたものの、家康からは疎まれていたと言われています。

名前の由来も、魚の「ギギ」に似ているからと言われていますね。

ギギとは、なまずの一種の魚です(;’∀’)

生まれてから数年は一度もお万の方や秀康のもとに会いに来なかった家康ですが、のちに長男の信康のとりなしで対面し、ようやくわが子と認知することになったそう。

その後、信康が死んだことで跡取り候補になるものの、1584年の豊臣秀吉と家康との戦い「小牧・長久手の戦い」では、和睦のあかしとして人質同然で秀吉の養子となりました。

羽柴秀康と名乗って、秀吉のもとで過ごしたものの、跡取りの子供が出来たため、秀康は結城家に養子に出されて結城秀康と名乗ることとなりました。

そのとき秀康は17歳にして、結城家18代当主となったのです。

結城家では、検地を行ったり、城の西側に新たに城下町を築いたり、様々な功績を残しました。

そして秀吉の死後、ようやく父・家康のもとに戻れた秀康!

「関ヶ原の戦い」では、上杉討伐の抑えとして会津にて奮戦し、その功績を認められ越前北ノ庄を与えられ、松平を名乗ることになりました。

越前への入国に際し家臣団と共に、結城家と関わりの深い孝顕寺などの寺院や有力な町人なども移転や移住をさせます。

その華やかな引っ越しの様子は「結城引っ越し」と称され、後世に語りつがれているそうですよ!

しかしそれから数年後、34歳という若さで亡くなります。

病気のようですが、詳しい病名は分かりませんでした。

家康の次男として生まれながらも、徳川を継ぐことが出来なかった不遇の息子とも言われていますが、武勇に優れた一流の戦人だったとも評されているようです。

於義丸【結城秀康】は双子?まとめ

【どうする家康】最終回はいつ?何話まで放送?

今回は「どうする家康」の家康の息子・於義丸の双子説についてご紹介しました。

於義丸こと結城秀康には、双子の弟・永見貞愛がいるとされています。

家康には息子と認められずに、母親の実家で育ち神職を継いだと言われているそうです。

そして結城秀康は、秀康の養子となったのち、結城家を継ぎ、関ヶ原の戦いののちは松平秀康を名乗ることになりますが、間もなく若くして病で亡くなりました。

「どうする家康」では、結城秀康を岐洲匠さんが演じます。

成長した結城秀康の登場はもう少し先になると思いますが、皆さんご期待くださいね!

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