松村任三と牧野富太郎の関係は良かった?教授時代の確執の理由は嫉妬?

  • URLをコピーしました!
#ad #PR #スポンサー

NHKの連続テレビ小説・朝ドラ「らんまん(ランマン)」がいよいよ東京編に入り、主人公の万太郎が東京大学の植物学教室で、植物学雑誌を出版することに!

このドラマは、日本の植物の父と呼ばれた、牧野富太郎(まきのとみたろう)をモデルにした主人公・槙野万太郎(まきのまんたろう)が、激動の時代に、愛する草花と向き合い続けた波瀾万丈の人生を描くオリジナルストーリーです。

東京大学の植物学教室の要潤(かなめじゅん)さん演じる田邊彰久(たなべあきひさ)教授が裏の顔がある?ことが判明。

そんな中注目は・・・田中哲司(たなかてつし)さん演じる東京大学の助教授の徳永政市(とくなが・せいいち)です。

当初は万太郎に厳しくあたっていた徳永政市ですが、植物学雑誌制作における田邊教授の対応に疑問を感じ、万太郎を応援する??展開のようです。

悪い人だと思っていたけど、本当は良い人?

そんな徳永政市は実在する・東京大学の助教授の松村任三(まつむら じんぞう)さんがモデルだと言われています。

松村任三さんと牧野富太郎さんの関係は実際はどうだったのでしょうか?良かった??確執があった??教授になった後に2人の関係に変化が??

今回は朝ドラ「らんまん」で東京大学植物学教室の助教授・徳永政市のモデル・松村任三さんについてご紹介していきます。

目次

松村任三と牧野富太郎は東京大学の植物学教室で出会う!

徳永政市のモデルは松村任三で東京大学の助教授!

万太郎と松村任三がモデルと言われている徳永政市との出会いは、万太郎が本格的に上京して東京大学植物学教室にやってきた時でした。

突然、土佐からやってきた田舎の青年に、東大の学生たちは、困惑。はっきりいって、最初は万太郎を受け入れることができなかった学生たち。

そんな万太郎に最初から厳しい言葉を投げかけたのは、徳永政市でした。

東京大学植物学教室の助教授。小学校中退の万太郎が植物学教室に出入りすることに強く反発する。

引用元:https://www.nhk.jp/p/ranman/ts/G5PRV72JMR/blog/bl/paV58pv9P1/bp/po2eOnE3pg/

東京大学の学生でもないのに、植物学教室に出入りして研究することを反対した徳永政市でしたが、田邊教授が万太郎を気に入り、万太郎は植物学教室に出入りすることになります。

そんな状況をずっと不満そうに見ていた徳永政市。

徳永政市のせいで、学生たちも万太郎に距離を置いていて、孤立してしまった万太郎。

松村任三と牧野富太郎は東京大学の植物学教室で出会う!

そんな徳永政市のモデル松村任三さんと牧野富太郎さんの出会いは、1884年・明治17年だと思われます。

まだ佐川にいた富太郎さんですが、本格的に植物学を研究するために、上京します。

そして誰からの紹介なのかは、はっきりとわからないのですが、その紹介者に連れられて東京大学の植物学教室に連れて行ってもらえた牧野富太郎さん。

東京大学の植物学教室は、いつも植物や標本の束がおかれていたことから、「青長屋」と呼ばれていたそうです。

そこでは、矢田部良吉教授とともに、松村任三さん、大久保三郎さんという2人の助教授がいました。

当時、朝ドラ「らんまん」のように、松村任三さんが、小学校中退の富太郎さんを相手にしなかったのか?は不明なのですが、田邊教授からは、東京大学の植物学教室への出入りを許されて、専門書籍や植物標本を自由に利用できるようになったそうです。

おそらく田邊教授と同様に、当時は、松村任三さんも富太郎さんの出入りを快く受け入れたのでは?と思います。

松村任三と牧野富太郎の植物学雑誌のエピソードは実話と違う??

松村任三とは?

ここで松村任三さんについてご紹介です。

松村任三さんは1856年、下手綱に生まれ、幼少のころから、漢学を学び武芸に励んでいました。そして15歳の時、今の東京大学の前身であった大学南校に入学。
1877年(明治10年)には、東京帝国大学付属小石川植物園に勤務し、矢田部良吉教授の助手となり、植物学研究の道に入り、植物採集の旅を繰り返すようになります。

そして1883年、助教授となった松村任三さんは翌年『日本植物名彙』など植物分類学研究上貴重な本を出します。そして、1885年末にドイツ留学に行き、植物分類学・解剖学の研究を深め、1891年には、理学博士の学位を授けられます。

そして、1897年に東京帝国大学附属小石川植物園の初代園長に。

1912年には、松村任三さんの生涯での大著である『帝国植物名鑑顕花部後編』を出版し、名実ともに植物学の権威者となります。

松村任三さんは、生涯にわたり150種以上の新植物を発見し、これらに学名をつけました。

松村任三と牧野富太郎の植物学雑誌のエピソードは実話と違う??

ドラマでは、徳永政市と万太郎は、植物学雑誌の製作において、変わっていきます。田邊教授が、植物学雑誌の出来が悪かったら、万太郎にすべての責任を押し付け、出来が良かったら自分の手柄にしようとしていることを知り、違和感を感じ、万太郎を応援するという展開のようです。

実際の松村任三さんと牧野富太郎の植物学雑誌時の関係性はどうだったのでしょうか??

牧野富太郎さんも、植物学教室のメンバーと一緒に植物学雑誌を制作しました!

ところが・・・実はこの時、松村任三さんは、東京大学にはいませんでした。実は、留学中で不在だったんです。なので、ドラマでの万太郎や田邊教授とのエピソードは、オリジナルです。

不在だったので、植物学雑誌の初版には、松村さんは関わっていませんでした。

2年ほど、松村任三さんはドイツ留学をしていたので、しばらくは富太郎さんとの交流はなかったかと思います。

松村任三と牧野富太郎の植物図鑑を認めた!良い関係だった?

富太郎さんは、明治21年に「日本植物志図鑑」が出版。これは植物学者の牧野富太郎の植物学界でのデビューになり、その内容は素晴らしく、当時の植物学者を驚かせ、皆絶賛しました。

松村任三さんも、「日本植物志図鑑」を受けて、【「日本の植物図志」を著すべき人は牧野富太郎だけだ】と絶賛する評論文を「植物学雑誌」に掲載したのでした。

松村任三さんが当時、牧野富太郎さんを高く評価していたことがわかりますね。

そして富太郎さんは植物学者として、植物の学名、和名を日本の学会誌に発表した最初の日本人となったり、希少な食中植物を発見して、ムジナモと名付けたりと、その名は日本だけでなく世界で知られるようになります。

 

松村任三と牧野富太郎の確執とは?

しかし富太郎さんの植物学者としての、活躍が嫉妬された可能性あると言われているのですが、1890年・明治23年に富太郎さんは「日本植物志図鑑」の第6集を出版した後、矢田部良吉教授から突如、植物教室への出入りを禁じられてしまいます。

その理由は富太郎さんが出版を続けていた「日本植物志図鑑」と同様の本を植物学教室で出版することにしたので、所管する書物や標本を部外者には見せられないと言うのがその理由でした。

そのあと、富太郎さんは矢田部教授の心無い仕打ちに対抗心を燃やして、「日本植物志図鑑」の更新を続けていきます。

しかし、富太郎さんの研究を経済的に支えていた実家の酒屋の経営が傾いたことから、明治24年の11月の「日本植物志図鑑」第11集の刊行が最後になってしまいました。

矢田部教授に対抗心を燃やして奔走していた富太郎さんですが、植物学教室に出入りできなくなることは、研究者として、多いなダメージだったそうです。

そのあとしばらくして、牧野富太郎さんは、矢田部良吉教授が非職となったというニュースを知ることになります。そしてその後の1893年、31歳のときに東京大学(当時は帝国大学)に呼び戻されます。

矢田部良吉教授の代わりに教授となった松村任三さんが、助手として富太郎さんにオファーをしたのでした。

そして研究の環境が整った富太郎さんは、植物学雑誌に次々と論文を発表していきます。

また、東京大学(東京帝京大学)から発売される「大日本植物誌」の製作を仕事をすることになった富太郎さん。

明治33年に「大日本植物誌」が発売されると、その緻密な図版は見る人を驚かせます。

しかし助手として富太郎さんを招いたはずの、松村任三さんが富太郎さんの存在を疎ましく感じるようになったそうです。

「植物学雑誌」への執筆を控えるように言ったり、「大日本植物誌」を富太郎さん以外の人に書かせると言ったり、安い給料で大きな家に住んでいると非難したり・・・と今で言うパワハラ!?

その理由は、牧野富太郎さんへの嫉妬だったのでは?と富太郎さんご本人が語っていました。

当時、松村任三さんと富太郎さんと同じ分類学を研究していて、富太郎さんが雑誌に様々なことを何も気にせずに、発表していたので、どうも松村任三さんは面白くない、嫉妬したのでは?ということです。

おそらく富太郎さんは周囲のことを忖度するという感覚がなかったのかもしれませんが、そういった面倒な人間関係の配慮が必要だったかもしれません(^^;

時代もあったのかもしれませんが、才能と実力があるだけでは、成功することが難しい世界なのかもしれません。

様々な松村任三さんの嫌がらせの中でも、どんなに輝かしい功績をあげても、お給料を上げてもらえなかったのが、富太郎さんにとって痛手だったようです。

お子さんを何人も出産され、子だくさんだった富太郎さん家族の生活は苦しく大変だったようです。

もちろん、そんなことに負ける富太郎さんではなかったのですが、明治43年にはついに、免職を言い渡されます。

しかし周囲の助けもあり、千葉県立園芸専門学校(現在の千葉高等園芸学校)の嘱託となり、東京植物同好会の会長を務めることに。また大学内では、免職に反対する動きが大きくなり、明治45年には講師としての復帰がかないます!

しかし富太郎さんと松村任三さん確執は大正11年の松村任三さんが退官するまで続いたそうです。

矢田部良吉教授から、大学への出入りを禁止された後、富太郎さんを大学に戻してくれたにも関わらず、富太郎さんの存在を疎ましく思った松村任三さんとの確執。

ドラマでは2人の関係性が今後、どう描かれるのか?注目です。

松村任三と牧野富太郎の関係が良くなる?らんまんで描かれる2人の関係!

そんならんまんでは、史実のように松村任三と牧野富太郎のモデルの2人の関係が一旦、良好になる展開になるようです。

万太郎(神木隆之介)が高知で採集してきた植物を共同研究させてほしいと頭を下げる大窪(今野浩喜)。万太郎は大窪を受け入れ、植物学雑誌での発表を目標に、二人で研究することになる。二人を見守ると決めた徳永(田中哲司)は、田邊(要潤)に報告。納得のいかない田邊に対し、徳永はこの研究に関わらなければ植物学教室は実績を出せないと伝える。連日連夜、研究に励む万太郎と大窪。そして…ついに!?

引用元:https://tv.yahoo.co.jp/program/114694512

当初は学歴のない万太郎の植物学教室の出入りをよしと思っていなかった徳永助教授が、一転、万太郎を認めて、田邊教授から万太郎を守って研究をさせてあげる展開に。

徳永助教授の評価が視聴者の間であがる展開ですが、2人の確執が描かれるのか?注目です。

 

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次