2023年3月25日、3月26日の2夜に放送されるテレビ朝日のスペシャルドラマ「キッチン革命(きっちんかくめい)」は、「食の革命」で日本を変えた2人の女性が主人公の物語です。
料理のレシピである「料理カード」を開発した医師の女性、また日本のダイニングキッチンを開発した建築家の女性と実在するお2人がモデルになっているんです。
1人目の主人公・香美綾子(かがみ・あやこ)を演じるキャスト女優は葵わかなさん、そして壮年期は薬師丸ひろ子さんが演じます。
そして2人目の主人公の浜崎マホ(はまざき・まほ)を演じるのは、伊藤沙莉さんです。
と言うことで、今回はドラマ「キッチン革命」また主人公の実在モデルのお2人の香川綾(かがわ あや)さん、浜口ミホ(まはぐちみほ)さんについても詳しくご紹介していきます。
キッチン革命は2人のモデルが主人公の物語!
本郷義彦のモデルは本城和彦!日本住宅公団・設計課長で建築家!
キッチン革命は実在モデルが主人公の物語!
男女問わずキッチンに立ち、レシピを見ながら料理をする光景は、今ではありふれたものとなっています。コロナ禍、レシピをチェックしながら料理し、家で食べる機会はさらに増えたのではないでしょうか。しかし、誰もが自宅で料理人の味を再現できるようになったのは、戦後になってからのこと。その背景には、知られざる2人のパイオニアが存在したのです。
そのひとりが、今では誰もが当たり前のように使っている計量カップ、計量スプーンを生み出し、現代で言うレシピ、“料理カード”を作りあげた女性医師をモデルとした香美綾子(かがみ・あやこ)。
戦前、一般家庭では妻であり、母である女性がその日ある食材を使い、“目分量”で“知っている料理”をこしらえてきました。豊かな食材を使用した美しい料理を食べられるのは一部の上流階級だけ。ほとんどの家庭では「空腹が満たされればいい」という発想になりがちで、栄養が偏り、病気を招いてしまうことも…。どの家庭でも“栄養バランスのよい、おいしい食事”を作ることができたら病気になる人も少なくなるはず。そのために、料理を科学の視点から分析しよう。そう考えたのが内科医でもある彼女でした。レシピという発想がなかった時代に、料理を数字化しようと、さまざまな困難に立ち向かい、未来を切り拓いていきます。そして、もうひとりの“革命家”は、日本初の女性建築家をモデルとした浜崎マホ(はまざき・まほ)。戦後復興の荒波の中、彼女が改革したのは、“台所”です。
台所は長い間、暗くて寒い北側に追いやられ、使い勝手の悪い設備を使い、女性たちが一日中働く場所でした。そんな台所を家族が集う家の中心へと移動させ、光り輝くステンレスの流し台を備えた、明るいダイニングキッチンにしよう―! 過去に前例のない一大プロジェクトを率いたのが彼女。ダイニングキッチンは、戦後の日本住宅を一変させた“発明”ともいわれています。
このドラマでは、実在した2人の女性をそれぞれ第1夜、第2夜のモデルに据え、戦前から戦後の日本を舞台に、未来のために奮闘する彼女たちの姿をエネルギッシュに描き出します!
引用元:https://www.toei.co.jp/release/tv/1230956_963.html
現在当たり前のように、キッチンにたって、レシピを見ながら料理をする・・・しかし当たり前でなかった時代に、キある2人女性の大きな発明が、大きな革命となったという歴史が!
そんな2人の実在モデルが主人公の物語であることがわかっているドラマ「キッチン革命」。
調べたところ原作と思われる文献などは出てこなかったのですが、主人公は実在のモデルがいることがわかっているので、2人の女性の実話をもとにしたストーリーだと思われます。
脚本を担当しているのは、NHK連続テレビ小説『マッサン』『ちむどんどん』映画『パッチギ!』『フラガール』(2006年)など多数のヒット作を担当している羽原大介さん。
2人の女性の実話をもとにどんなストーリーが展開するのか?楽しみですね。
キッチン革命1夜のモデルは医師で軽量スプーンやレシピを開発
1909(明治 42)年、実験と数字が好きな10歳の少女・綾子は、最愛の母・房枝(石田ひかり)を病気で失い、「お母さんのような人を助けたい」と決意。父・茂雄(杉本哲太)の反対を押し切り、東京女子医専に進学する。
1926(大正15)年、女子医専を卒業した綾子(葵わかな)は東京帝大医学部附属医院の内科に入局。しかし男尊女卑の時代、綾子は男性医局員たちに冷遇される日々を送る。担当した脚気患者からも、「担当を男性医師に変えてほしい」と要望を出されてしまう。
失意の綾子を救ったのが、医局の先輩医師・香美昇一(林遣都)だった。彼は人付き合いが苦手で研究ばかりしている“変人”だったが、昇一は「君は、医者として日々やるべきことをやればいい」と綾子を鼓舞する。そんな2人がはじめたのは胚芽米の研究。当時、脚気は有効な治療法が確立されていなかったが、昇一はビタミン B1が多く含まれる胚芽米に光明を見出したのだ。しかし、胚芽米はおいしくないため患者にも嫌がられてしまう。そこで綾子は料理上手な叔母・横田フネ(筒井真理子)に胚芽米を炊いてもらい、誰でもおいしさを再現できるよう時計や温度計、秤などありとあらゆる“モノサシ”を用意。胚芽米をおいしく炊くための条件を“数値化”していく…。
恩師・花園順三郎(渡部篤郎)の助言もあり、予防医学の観点から栄養学を極めようと決めた綾子は、家庭料理には栄養バランスの整ったおいしいレシピが必要だと考える。だが当時、料理の作り方は明文化されておらず、料理人の勘や腕、経験だけの世界だった。綾子は有名料亭の親方・深谷辰之助(伊東四朗)らに反発されながらも、料理法を数値化しようと奮闘して…。
引用元 テレビ朝日公式サイト
1夜は、現在料理で当たり前ように皆が使用している計量カップ、計量スプーンを生み出し、また、現代で言うレシピ「料理カード」を発明した女性医師・香川綾さんがモデルの主人公のストーリー。
主人公を演じるのは葵わかなさんで、薬師丸ひろ子さんが壮年期を演じます。
キッチン革命2夜のモデルは女性建築家でダイニングキッチンを開発!
1955(昭和30)年、日本住宅公団の設計課は、いつになくざわついていた。新たに公団住宅を作るにあたって、設計課長の本郷義彦(成田凌)が“お台所のマホ様”とよばれる浜崎マホ(伊藤沙莉)に設計チームのアドバイザーを依頼したためだ。マホは、日本初の女性一級建築士。海外育ちで日本の様式美を無視する曲者ともいわれていた。
初めの顔合わせで、マホはいきなり「一戸あたり13坪では狭すぎる」と公団の決定に異を唱え、従来の日本家屋で北側にあった台所を南側に置くことを提案。これまで寒い場所での苦しい作業だった“台所仕事”を快適なものにしたい、という理想からだった。
しかし、戦後日本のひっ迫した住宅事情から13坪という面積は覆らず、マホは“狭さに挑戦する”ことを決意。“妻・栄子(中村アン)のためにも素敵な台所を作りたい”という熱意を秘めた本郷とともに、理想の台所作りに向けて奔走する日々がはじまる。
狭い台所では動線の確保が困難で、料理がしづらい。そこでマホが思いついたのは、流し台の配列の変更だった。“動ける場所を広くする”のではなく、“動かないですむ”ようにする逆転の発想だった。さらに、じめじめして掃除が大変だった“ジントギ(人造石を成型して研ぎ出した素材)”の流し台を、汚れが落ちやすく、錆びないステンレスに変えることも提案。だが、国内でステンレスを生産している会社はなく、マホは住宅公団副総裁・鈴木仙吉(北村一輝)に、大型プレス機購入を直談判するが…!?
そんな中、マホが考案した流し台の配列に反対する声が上がり、それをきっかけに綾子(薬師丸ひろ子)とマホが交錯する出来事が起きて…!?
引用元 テレビ朝日公式サイト
日本初の女性建築家であり、日本でダイニングキッチンを発明した浜口ミホさんがモデルの主人公です。
演じる女優さんは、伊藤沙莉さんです。
以降では、それぞれのモデルのお二人について詳しくご紹介していきます。
キッチン革命のモデル①香川綾
第一夜の主人公のモデルとなったのが香川綾さんです。
誰もが料理で使用している計量カップ、計量スプーンですがなんと、香川さんが発明したものなんです。
また、いわゆる「レシピ」である「料理カード」を作りあげた女のも香川さんです。
それまでは軽量スプーンもレシピもない中で女性たちは料理をしていたんですね。
香川綾さんは、女子栄養大学の創始者であり、現代栄養学の礎を築いた「栄養学の母」とも言える女性なんです。
📺「日本の食卓」
第1夜(3/25)の主人公 香美綾子(葵わかなさん)は、本学創立者の香川綾先生がモデルです。#女子栄養大学 #キッチン革命 https://t.co/o2iENPzi4t— 女子栄養大学図書館 (@eiyolibrary) March 23, 2023
以下の栄養女子大学で公開している漫画では、香川さんについて詳しくご紹介されています。
https://drive.google.com/file/d/1LdCl8U8b4bIH_WoFqYb7N4TmKOTlpRv2/view
香川綾さんは1899年、和歌山県で生まれました。14歳のときに大好きだった母親や急病で亡くした香川さん。
昨日まで元気だった母親の死にショックを受けた香川さんは、良い医師がいたら母親を救えたのでは?と思い、教師になってほしいと言う父親からの反対を押し切り医師になる決意をします。
しかし父親の考えもあり、師範学校に入学し教師となります。しかし医師になるという思いは消えていませんでした。
4年間小学校の教師をされたあと、父親を説得して、トップの成績で合格した東京女子医専に状況して入学。卒業後は、東大医学部島菌内科に入り、栄養の基礎を研究します。
この時に、夫である昇三さんと運命の出会いをします。昇三さんは東京帝大業後、母校の医局でビタミンの研究をされていました。
ここでの経験から、食事によって病院が劇的に回復しているのを見て、栄養学と食の重要さを実感した香川さん。
そして栄養学で病気を予防する医師になる決意をしたのでした。そして料理法も勉強をしようと思った香川さんは、料理教室に通ったものの、調味料などの量は「ほどほどに」など、個人のコツなどに頼ったもので、当時は素人が味を再現するのは至難の業である現実を知ります。
このとから、誰でも美味しい栄養満点の料理を作れるようにならないか?と思い、これまでの研究で培ったように、分量や火加減を数値で表す方法を料理で試してみることにします。
そんな香川さんの料理のやり方が話題となり、講演などに呼ばれるようになります。
そんな中、同僚だった昇三さんと1930年にご結婚。夫婦で「病気を治す」だけでなく「病気を未然に防ぐための」栄養学が必要!と考えて、自宅で1933年に家庭食養研究会を発足します。
栄養学の講義は東大からの講師陣、料理は一流の料理人たちを講師に招いてその料理を計算化することからスタート!
それを記録した「料理カード」を作成。この料理カードは1935年創刊の「栄養と料理」の付録となりました。
料理カードの歴史
1935年 「栄養と料理」の付録となり、カードについての説明が記載される。材料は5人前と1人前が記載され、分量は概量と瓦(g)が併記される。
1937年 ポークカツレツなどの当時珍しかった洋風料理も登場するようになる。お弁当カードも提案するようになった。ティースプーンなどでの計量も表記されるようになる。
1940年 家庭の食器や調理器具などでの計量の容量が表記される。
1944年 終戦前の激戦時、煮干しと茶殻などで作れるふりかけなどのカードが作られる。
1945年 休刊となる。
1948年 料理カードが再開されるが、物資がない時代で紙質も悪かった。計量カップや計量スプーンを推奨する。
1951年 香川綾考案の計量スプーンで計った各材料の重量が表記される。
1953年 料理カードが2色刷りになる。
1960年 カラーになり、材料の選び方や、献立ヒントなども表記されるようになる。
1970年 四群点法による点数が表示されるようになる。
1935年に月刊誌「栄養と料理」を創刊します。
1940年に「女子栄養学園」となり、これが現在の女子栄養大学となります。
ご夫婦は胚芽米の奨励など、栄養学の普及にずっと尽力されてきました。
そんな順調かと思われたお二人でしたが、太平洋戦争によって昇三さんは体調を崩してしまい死去されます。
悲しみの中、生き残った自分が夫の意志をついで仕事を続ける決意をします。
学園の再建と、栄養学の普及に全力を尽くしました。
その再建とともに、計量カップと計量スプーンづくりを行った香川さん。
料理にものさしをあて、誰が作っても同じようにおいしく、栄養のある料理が再現できるようにする・・・香川さんが追い続けてきたテーマでした。
現在では当たり前であった計量カップと計量スプーンを開発したのでした。
以下の記事では更に詳しく香川綾さんについて詳しくご紹介しています。
香美綾子【かがみあやこ】のモデルは香川綾で実在の医師でレシピを発案?
キッチン革命のモデル②浜口ミホ
浜崎マホ【はまざきまほ】モデルは建築家・浜口ミホで実在!ダイニングキッチンを発明
1915年生まれの浜口ミホさんは。女性建築家第一号であると言われています。
浜口ミホさんは、ステンレス製のキッチンを採用させたんです。
浜口ミホさんは1937年に現在のお茶の水女子大学を卒業され、東京帝国大学工学部建築学科の聴講生となりました。当時は女子の入学が認められていなかったのです(>_<)
修了後から前川國男建築設計事務所で建築を学び始め、そこで出会った日本人初の建築評論家、浜口隆一さんと1941年にご結婚。
1945年農村建築研究のため北海道に渡ったのち、1948年に浜口ミホ住宅相談所を開設しました。
1954年に女性として初の一休建築士となり、1958年に相模女子大学などで住居学講師に。浜口ミホ住宅相談所を「浜口ハウジング設計事務所」に改名します。
浜口美穂建築研究所を設立し、戦後の住宅改善に尽力されます。
昔のキッチン・台所の位置は北側で、寒くて暗くて、男子厨房に入るべからず・・・といういわゆる男尊女卑だった世の中がわかるような作りになっていました。
それを機能的で明るい場所に引き上げた功労者が浜口ミホさんなんです。
1955年発足した日本住宅公団の台所に、浜口ミホさんの機能的な台所が採用され、販売促進にもつながりました。それが「公団2DK」です。
この間取りは他の住宅にも取り入れられるようになりました。
このように浜口ミホさんは、キッチンをステンレス製に変え、裏方から表舞台に昇格させた人物です。
浜口ミホさんは1988年にお亡くなりになりましたが、生前1000戸以上の住宅を手掛けたそうです。