古関裕而のビルマ慰問は実話なの?戦争で命がけで従軍?

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NHK朝ドラ「エール(えーる)」は福島が生んだ天才作曲家、古関裕而(こせきゆうじ)さんをモデルにした朝ドラです。

ドラマでは戦争の影が色濃くなり、どんどん庶民を巻き込んでいきます。

主人公の古山裕一(窪田正孝)の恩師、藤堂先生(森山直太朗)も出征することになりましたね(>_<)

モデルとなった古関裕而さんも実際に従軍。ビルマなどに慰問に訪れています。

そんな朝ドラ「エール」のモデルの古関裕而さんの命がけの慰問について実話を調べてみました。

その古関裕而さんが体験した慰問とはどのようなものだったのでしょうか?

ドラマ「エール」の今後のネタバレも一部ありますので閲覧注意です。

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目次

古関裕而のビルマ慰問は実話?戦争に命がけの従軍だった?

ドラマでは、これからモデルの古関裕而さん役となる古山裕一がビルマの慰問に行くことになります。

古関裕而さんの慰問が実話についてご紹介する前に、まずはドラマの古山裕一のビルマの慰問のネタバレをご紹介していきます。

藤堂先生が戦争でビルマに

藤堂先生は戦争で戦死する?エールネタバレはお墓が嫌な予感?

まず、藤堂先生(森山直太朗)が戦争でビルマに行くのか?というと、行きます!

藤堂先生と裕一(窪田正孝)たちが再会した理由から、始めさせていただきます(^^)

藤堂先生は裕一たちが小学生のときの、学校の先生です。

大人しくて運動が苦手。内気な少年だった古山裕一の、音楽の才能を見出し両親に話しに行ってくれたのが藤堂先生。

そして離婚した母親が恋しく、会いに行くも別の家庭を築き、幸せそうにしているところを見てしまった佐藤久志(山崎育三郎)。

落ち込む久志に、一緒に歌を歌って元気づけてくれたのも藤堂先生でした。

久志もこのことがあったから歌手を目指します。

そして家族で夜逃げをしてしまった村野鉄男(中村蒼)一家。

鉄男に新聞配達を紹介してくれたのも藤堂先生。そこから鉄男はがんばり、新聞記者になりました。

このように藤堂先生は、3人にとってかけがえのない恩師です。

裕一、久志、鉄男は福島三羽ガラスとして、3人で曲を出すことを夢見て頑張っています。

その夢が叶いそうになりました!

裕一が作曲した「露営の歌」が大ヒットしたことから、軍から曲の依頼が来たのです。

裕一は3人でやらせてくれるなら、という条件で引き受けました。

頼んできた軍人は、裕一の妻の音(二階堂ふみ)の姉、吟(松井玲奈)の夫、関内智彦(奥野瑛太)です。

軍が軍馬を一般人にアピールするために作った映画「暁に祈る」の主題歌です。

馬に愛着のない鉄男は(^_^;)、軍が望むような詩をなかなか書けません。

これまで6度も書き直しをさせられ、とうとう別の作詞家に・・・となってしまいました。

それを受け裕一もこの話を断ろうとしますが、最初に頼んできた智彦のメンツがつぶれてしまいます。

最後のチャンスをもらった裕一は、鉄男を説得。詩を書くきっかけになれば、と福島の実家にふたりで出かけました。

裕一の実家には、なぜか久志がいました(笑)かなり馴染んでいましたね~。

するとそこへ藤堂先生も!

裕一と以前川俣銀行で一緒に働いていた、藤堂先生の妻、昌子(堀内敬子)と二人の息子、憲太(宇佐美謙仁)を連れてやってきました。

実はこれは偶然ではなく、裕一が仕込んだこと。

鉄男は詩が書けずに悩んでいることを藤堂先生に告げました。

以前鉄男は裕一作曲の「福島行進曲」という曲を書いています。売れませんでしたが(^_^;)

その詩は別れた恋人を思って書いた詩。

誰かひとりのために書いた曲は、不思議と多くの人の心に刺さる

藤堂先生は自分のために詩を書いてくれないか?と頼みます。

実は藤堂先生は、まもなく戦争に行くことになっていたのです。

ふたりが作った曲とともに行けるなら、こんな心強いことはない

父親が軍人だった藤堂先生は、予備役将校という教育課程を受けていて、非常時には召集される立場でした。

藤堂先生の出征に3人は衝撃を受けます。

鉄男は藤堂先生を思い、気持ちを込めて詩を書き、それがようやく通りました。

そして裕一が曲をつけ、久志が歌った「暁に祈る」は大ヒットとなります。

その後藤堂先生は戦地のビルマへと行くことになります。ビルマは現在のミャンマーのことです。

古山裕一もビルマに慰問?藤堂先生に会いに??

その後古山裕一は慰問としてビルマに訪れることになります。

これは10月中旬の放送です。

そこでは朝ドラとは思えないような衝撃的なシーンもあるとか。

賛否はあると思いますが、ガッツリとせんそう

窪田正孝さんもハードなシーンとコメントしています。

さて、それでは裕一のモデル古関裕而さんは、実際にビルマを慰問で訪れているのでしょうか?

 

 

古関裕而のビルマ慰問は実話!戦争で命がけだった?

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古関裕而さんが慰問でビルマに行ったのは実話です!

ただ命がけだったのか?というと、戦地に行くので命がけであったことは間違いないと思います。

古関さんは、インパール作戦の「特別報道班員派遣」として従軍することになりました。以下、記事の抜粋です。

インパール作戦とは、川幅が600mにもおよぶ大河と2000m級の山を越えて、ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点であるインパールを3週間で攻略する計画でしたが、無謀だと言われていました。

結果、日本軍はインパールに誰1人たどり着くことなく、およそ3万人が命を落としたと言われている作戦。古関裕而さんが、それだけ命を懸けて、危険な作戦に従軍していたことがわかります。

そんな古関裕而さんがインパール作戦に従軍した時に一緒だったのは、作家の火野葦平さん、画家の向井潤吉さんなど。その中に、朝日新聞記者の野呂信次郎が従軍記者としていらっしゃいました。

古関裕而さんははビルマ・ラングーンに数ヶ月滞在し、現地の音楽文化に触れることができた一方で、戦争の恐ろしさ、悲惨さを目の当たりにしました。

実際に最前線に行くことはなかったものの、実際に前線を体験することになった火野葦平さんなどからその体験を伝え聞いたようです。

引用元:大倉憲三のモデルは野呂信次郎?エールの新聞記者は実在?

インパール作戦とは、川幅が600mにもおよぶ大河と2000m級の山を越えて、ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点であるインパールを3週間で攻略する計画でしたが、無謀だと言われていました。

またビルマではないのですが、慰問先で「テング熱」にかかり、回復までに10日間かかったことも。「テング熱」はマラリアの方に致死率が高いわけでは、ないですが、まれに命を落とすことがある病気です。しかも場所は戦地。様々な要因で危険な慰問だったことがわかります。

古関裕而さんが最初に慰問したのは「暁に祈る」発売の2年前のことでした。

中支派遣軍報道部(中支とは中国大陸の中部地方のこと)から、従軍音楽部隊としての慰問を依頼された古関裕而さん。

このときに西條八十さんとともに中国に渡ったそうです。

この時代、音楽関係のひとたちはみなさん軍から要請され、各地に慰問に訪れたそうです。

お笑いの人たちは「演芸慰問団わろてんか隊」として従軍しています。これは朝ドラ「わろてんか」でも描かれました。

古関裕而さんはこんな慰問をされています。

◆1938年 上海と南京を慰問

◆1940年 「暁に祈る」が大ヒット

◆1941年 シンガポール、ビルマを慰問

◆1942年 ジャワ、シンガポールへ慰問

◆1943年 若鷲の歌が大ヒット

◆1944年 ビルマに赴き「ビルマ派遣軍の歌」を作曲

◆1945年 36歳で赤紙が届く

◆1945年 終戦

1942年の慰問はNHKの前身となる日本放送協会からの依頼だったそうで、このとき古関裕而さんは「露営の歌」などの指揮をされたそうです。

ほかにもマレーシアやタイ、ベトナムなどにも軍の要請を受け、慰問に訪れています。

古関裕而さんが作曲した「ビルマ派遣軍の歌」は、軍からの強い要請で兵士たちを励ますために作られました。

慰問中に母親が亡くなった古関裕而は・・・

古関裕而さんの母親、ヒサさんは1943年にお亡くなりになったそうですが、このとき古関裕而さんは慰問でベトナムやビルマに。

もちろん、帰国の希望を出したそうですが「軍の計画を変更することはできない」と言われ泣く泣く、慰問を続けたそうです。

そのまま帰国は受け入れられず葬儀が1か月遅れたそうです。

「エール」では菊池桃子さんが母親のまさを演じていますが、ドラマではどのように描かれるのでしょうか。

何か嫌な予感がしますね・・・。

このように実際に古関裕而さんはビルマに従軍で訪れていますが、豪華な牛肉料理で歓迎されたこともあるそうです。

 

 

古関裕而が慰問したビルマは現在のミャンマー?

藤堂先生のモデルは遠藤喜美治!担任の先生は実在【エール】

ビルマは現在のミャンマーのことです。インドシナ半島の西部にある国です。

ビルマ国は1943年8月1日から1945年3月27日までにしか存在していません。たった1年半の国家だったんですね。

ミャンマーは第2次世界大戦の前までは、イギリス軍との戦争でイギリス領インドに併合されていました。

イギリスの植民地だったミャンマーは、1943年に日本軍の援護を受け独立を宣言。

ビルマ国の誕生です。

そして日本と同盟し、アメリカ、イギリスに宣戦布告をしました。

1944年、日本に敗戦の色が濃くなってくるとイギリスに寝返ります。

1945年日本軍は降伏し、ビルマは解体されました。

このような状況をみても、ビルマは激戦区であったことが想像できます。

そんなところへ慰問に行くなんて、きっと命がけだったのではないでしょうか。

 

古関裕而がビルマへの慰問で金子さんと手紙をやりとり

何度も慰問に行かれた古関さんでしたので、奥様の金子さんもきっとご心配されたことでしょう。

もちろん最初に慰問に行くとき金子さんは「行かないで」と古関裕而さんに言ったそうです。

しかし「日本男児として、どうしてこれを断れる」と古関裕而さん。もちろん金子さんは断れないことはわかっていたのですが、思わず出てしまった言葉だと思います。

当時こういったやり取りが日本中でされていたのかな??と思うと胸が痛いですね。

古関裕而さんのことを記した書籍では、古関裕而さんが慰問に行っていたときに、奥様の金子さんと何通も手紙のやりとりをしていたことが明かされていました。

手紙は他愛のない日々の出来事の報告でしたが、その中にお互いの愛情を感じられる素晴らしい内容でした。

そして兵士として赴く藤堂先生も心配です(>_<)

そんなビルマでのシーンもこれから放送されますが、フィクションではなく事実であったことを忘れないでください。

 

古関裕而がビルマ慰問の後に召集令状が

終戦間近、古関裕而さんにも36歳にも拘わらず赤紙が届きました。日本軍も相当厳しい状態だったのでしょう。

しかし実は古関裕而さんは、病気のため、召集令状が来る対象にはなっていないはずでした。

驚いて問い合わせてみると、なんと人違いで召集令状が来てしまったとのことでした。

しかし、一度出してしまった召集令状は取り消すことが不可能だったことで、入団したら、1週間ほどで召集を解除すると約束されて入団を決意しました。

ところが入団した後、1週間、2週間たっても古山さんは帰ってきませんでした。

結局、古関裕而さんは横須賀に派遣され、1か月軍人として過ごし戻ってきたのでした。

古関さんは1週間という約束にもかかわらず、期間が延びたことで、このまま戦地に行かされるのでは??と不安になったそうです。

ちょうどそのタイミングで入隊が終了したそうです。

古関裕而さんは軍歌を作曲していたり慰問もしていたので、病気でなくても、召集令状が来る可能性は低かったようでした。

 

古関裕而のビルマ慰問は実話で戦争で命がけの従軍だったのまとめ

暁に祈ると福島三羽ガラスの実話!映画の主題歌を手掛ける

「エール」では藤堂先生が出征します。

そして戦地であるビルマに行くことになります。

そのビルマに裕一も慰問で訪れることになりました。

実話でも裕一のモデル、古関裕而さんが何度かビルマに行き、兵士たちのために「ビルマ派遣軍の歌」という曲を作っています。

激しい戦闘地だったであろうビルマ。兵士としてはもちろんですが、従軍で行くのも命がけだったと思います。

そんなビルマでのシーンが10月中旬に放送されます。

軍歌の名手と呼ばれ、多くの軍歌を作曲された古関裕而さん。

ビルマでの古関裕而さんは「エール」でどのように描かれるのでしょうか。

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