露営の歌など古関裕而と伊藤久男の軍歌の実話

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朝ドラ「エール(えーる)」も9月14日(月)の放送から、いよいよ本放送が再スタートしました(^^)

「エール」はこれから戦争へと時代が移っていきます。

戦時中に許された歌は軍歌。

主人公の窪田正孝(くぼたまさたか)さん演じる古山裕一(こやまゆういち)のモデルは、天才作曲家の古関裕而(こせきゆうじ)さん。

古関裕而さんも「露営の歌(ろえいのうた)」など多くの軍歌を作曲されました。

そんな古関裕而さんの「露営の歌」など軍歌にまつわる実話をご紹介させていただきます。

さて、古関裕而さんが作曲した軍歌は、佐藤久志(山崎育三郎)のモデルである伊藤久男(いとうひさお)さんも歌ったのでしょうか?

目次

「露営の歌」など古関裕而が軍歌を作曲は実話?

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第15週「先生のうた」からは、戦争パートに突入する朝ドラ「エール」。主人公の古山裕一は、作曲した「露営の歌」が大ヒットして、“戦時歌謡の旗手”として注目される・・・というストーリーなのですが、モデルの古関裕而さんも本当に軍歌を作曲、大ヒットしたのでしょうか?実話なのか?をご紹介する前に、まずは、古関裕而さんについて簡単にご紹介します。

古関裕而(こせきゆうじ)さんは1909年、福島の呉服店に生まれました。

音楽好きだった父親は、当時まだ珍しかった蓄音機(レコード再生機)を買い、古関裕而館も子供のころから音楽に親しんでいました。

これはドラマと同じですね。ドラマでは呉服屋の名前は「喜多一」でしたが、実際には「喜多三」だったそうです(^^)

そして音楽好きだった息子のため、母親は小さな卓上ピアノを古関裕而さんに与えました。

小学校を卒業するころには楽譜が読めるようになっていた古関裕而さん。10歳のころから独学で作曲を始めたそうです。

ドラマでは志村けんさんが演じた小山田耕三の本で勉強していましたが、実際に小山田耕三のモデルである山田耕筰さんの本で勉強していました。

呉服屋の長男として生まれた古関裕而さん。家を継ぐべく福島商業高校に入学、ですがそんなときに実家の呉服屋が倒産してしまいます。

学校を卒業した古関裕而さんは、親戚が経営していた川俣銀行に就職を勧められ、そこで働くことになりました。

経緯は少し違いますが、ドラマでも川俣銀行で働くようになりましたね。

古関裕而さんは銀行で働きながら、作曲活動や「福島ハーモニカ・ソサエティー」でハーモニカの演奏もしていました。

そして古関裕而さんが20歳のころの1929年。古関裕而さんが作曲した「竹取物語」がロンドンの世界的作曲コンクールで入賞♪

21歳になった翌年、古関裕而さんはそのニュースを見てファンレターを送ってきた、金子さんとご結婚♪

山田耕筰さんの推薦で日本コロムビアと契約し、ふたりで上京しました。

ここもドラマとほとんど同じですね~。コロムビアと契約後、なかなかヒット曲が作れなかったのも実話です。

古関裕而さんが日本コロムビアと契約し、最初にレコード化されたのが「福島行進曲」。ドラマでは村野鉄男(中村蒼)が作詞を手掛けましたね。

実話でも、村野鉄男のモデルである野村俊夫さんの作詞です。野村俊夫さんは古関裕而さんより5歳年上ですが、実際に子供のころからご近所さん。

一緒に遊んだ幼馴染です。

そのころに手がけたのが「紺碧の空」♪ドラマでも早稲田大学の応援団がやってきて、てんやわんやの騒動になりましたね(^_^;)

その後「六甲おろし」なども作曲されますが、時代は戦争へ・・・(>_<)

1937年に日中戦争が勃発。その年に古関裕而さんが作曲した「露営の歌」は60万枚も売れました。そう・・・実話のストーリーが展開されるんです。

 

 

露営の歌は古関裕而が作曲で伊藤久男が歌った実話やエピソードとは?

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「露営の歌」とは、こんな歌い出しです。

勝って来るぞと 勇ましく
ちかって故郷(くに)を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか
進軍ラッパ 聴くたびに
瞼に浮かぶ 旗の波

このように露営の歌は、1937年に発売された軍歌です。

日中戦争が起こり、毎日新聞が「進軍の歌」の歌詞を公募。

市役所で働く男性の詩が選ばれ、それに古関裕而さんが曲をつけました。

この詩が新聞に掲載され、古関裕而さんは満州旅行から帰ってくる列車の中でその詩を見たそうです。

満州で見てきた古戦場の光景なども重なり、その詩のメロディがスッと浮かんできたと言います。

コロムビアから至急の仕事として、この「露営の歌」作曲の依頼が来ましたが、すでにできていた楽譜を社員に渡した、という逸話もあります。

実はこのレコードでは、露営の歌はB面でした。ですがA面の「進軍の歌」よりも人気が高かったそうです。

翌年の1938年、古関裕而さんが29歳のとき。軍報道部の依頼で、従軍音楽舞台として戦地を訪れることになり、いろいろな戦地に赴き戦場を見てきました。

 

古関裕而と福島三羽ガラスの軍歌の実話は?

その後、1940年に大ヒットとなった「暁に祈る」を作曲しました。

この曲は古関裕而さんの軍歌の中で、一番ヒットしたそうです。

「暁に祈る」は映画の主題歌で、「エール」の佐藤久志(山崎育三郎)のモデル、伊藤久男さんが歌いました♪

そしてこの「暁に祈る」の作詞は野村俊夫さん♪福島三羽ガラスの作品だったんです(≧∇≦)

ちなみに伊藤久男さんとは、幼馴染ではありません。

東京で知り合いましたが、故郷が同じということで意気投合したのかもしれませんね。

その後も古関裕而さんは戦地各地を訪れ慰問に従事しました。

そしてこんな軍歌を作曲されています。

海の進軍
宣戦布告
断じて勝つぞ
アメリカ爆撃
決戦の大空へ
若鷲の歌
ラバウル海軍航空隊
ビルマ派遣軍の歌

古関裕而さんの作曲された軍歌は、軍の委嘱によるものではなく、多くは新聞社や映画会社からの依頼で作った曲などの戦時歌謡などであり、100曲近くあったそうです。

戦争に向かうための曲を作るというより、青春への熱い思いがあったという古関裕而さん。

ようやく戦争が終わりました。

 

 

軍歌を作曲した古関裕而の戦後の心境は複雑だった?

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戦争が終わり、1947年にNHK連続ドラマ「鐘の鳴る丘」が始まりました。主題歌は古関裕而さん作曲の「とんがり帽子」♪

1948年には甲子園のテーマソング「栄冠は君に輝く」、1949年には平和を歌った「長崎の鐘」なども大ヒット。

それまで戦争で鬱積されていた、何かを吐き出したかのような元気な歌の数々。

そんな明るいメロディーが国民を勇気づけました。

そして1949年、伊藤久男さんの大ヒット曲「イヨマンテの夜」が発売。1953年にはラジオドラマ主題歌の「君の名は」が空前のヒットに。

古関裕而さんの集大成ともいえる「オリンピックマーチ」は1964年の作品です。

このように大ヒット曲で国民から愛された古関裕而さんですが、戦後は自分の作った曲で苦しみました。

戦時中、多くの若い兵士たちは「露営の歌」に見送られ旅立って行きましたが、そのことで戦争に加担した、という重圧となったのです。

自分の家族にも戦争に関することは語らなかったという古関裕而さん。

戦争後期に特攻隊として、若くして命を落とした兵士たちも、古関裕而さんの「若鷲の歌」を歌い旅立って行ったそうです。

特攻隊として亡くなった方を思うと心が痛む

そんな古関裕而さんの声が残されていました。

軍歌を作曲をした古関裕而さんに、戦争責任を問う声などもあったとか(>_<)

その罪を償うかのように、戦後は元気で勇気づける作曲を続けました。

心を傷めながら作った曲。それらは軍歌とは違うという信念を持っていた古関裕而さん。

軍から直接命令されたわけではなく、一般大衆に寄り添った曲を作曲してきたので、それは軍歌ではなく戦時歌謡であると。

そんな古関裕而さんの胸の内も、描かれるといいなと思います。

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古関裕而さんは45年間の作曲人生において、軍歌を作曲していた7年間がもっとも暗かったとそうです。

今後の「エール」について、土屋プロデューサーは、戦後の平和の尊さを出すうえでも、戦争についてはちゃんと描く、とコメント。

古関裕而さんがどんな思いで軍歌を作曲したのか、そしてその後どんな思いをされたのか。

「エール」でどうぞご確認ください。

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