関ヶ原の戦いの戦死武将まとめ!西軍と東軍は誰が死んだ?

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松本潤さん主演NHK大河ドラマ「どうする家康」は徳川家康と石田三成の天下分け目の関ヶ原の戦いが描かれます。西軍と東軍で誰が死んだのか?戦死武将は誰だったのでしょうか?「どうする家康」関ヶ原の戦いの戦死の武将をまとめてご紹介します。

目次

関ヶ原の戦いの戦死の武将!西軍は誰が死んだ?

小早川秀秋が裏切った理由はなぜ?

物語も佳境に差し掛かっている「どうする家康」ですが、11月12日放送の第43回のタイトルは「関ヶ原の戦い」です。

ついに関ヶ原の戦いが描かれます!

東軍と西軍に分かれた、徳川家康と石田三成の天下分け目の戦い。

どちらが勝ったかは皆さんご存じかと思いますが、西軍と東軍で誰が死んだのか?あまりご存じない方も多いと思います。

今回は「どうする家康」関ヶ原の戦いの戦死の武将をまとめてご紹介します。

まずはそのあらすじを見てみましょう。

秀忠(森崎ウィン)率いる主力軍が来ない。真田の罠にはまってしまったのだ。西軍に圧倒的に数で劣る家康(松本潤)は野戦での勝負を決断。決戦の地に関ヶ原を選ぶ。そして大量の密書をばらまき、敵に切り崩しを仕掛ける。優位に立つ三成(中村七之助)は呼応するように兵を進め、両陣合わせ15万が集結、天下分け目の大戦が始まる!一方、大坂では家康の調略に動揺する毛利輝元(吹越満)に、茶々(北川景子)は不満を募らせる。

引用元:公式サイト

皆さんよくご存じの関ヶ原の戦いがついに描かれるわけですが、史実通りにいけば秀忠本軍が関ヶ原に間に合わず、井伊直政が先陣を切り戦いの火ぶたが切られます。

その後西軍有利に進むものの、小早川秀秋の裏切りによって、見事に徳川家康率いる東軍の勝利!!

という展開になると思います(^^♪

わずか一日で決着がつく関ヶ原の戦いですが、その奮闘の中で誰が死んだのか?あまりご存じない方も多いはず。

以降で、西軍と東軍の主な武将の戦死についてご紹介します。

石田三成

「どうする家康」で中村七之助さんが演じている石田三成は、西軍の中心的な武将です。

敗戦後は、関ケ原から逃れて近江に逃げましたが、東軍に捕まり京の六条河原で処刑されるという最期でした。

 

大谷吉継

三成の盟友で、病を押して頭巾をかぶりながら戦場に駆けつけた大谷吉継。

「どうする家康」では忍成修吾さんが演じました。

吉継は小早川秀秋の裏切り後、小早川軍と対峙します。

しかし、さらに朽木元綱、脇坂安治が裏切ったことで壊滅状態になってしまい戦場で自害して果てました。

島左近

高橋努さんが演じている島左近は石田三成の右腕として活躍します。

関が原では三成を逃がそうとして、敵軍に突入し銃撃されてしまいました。

そのまま死んだとも、京に落ち延びたとも言われているそうです。

小西行長

小西行長はキリシタン大名で、池内万作さんが演じています。

西軍の主力武将でしたが、敗戦後キリシタンであるため切腹は選びません。

東軍に捕まったのち、石田三成とともに京の六条河原にて斬首されました。

安国寺恵瓊

毛利家の外交担当の僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は、どうする家康には登場していません。

しかし、関ヶ原の戦いに至るまで暗躍した人物として、様々な作品に登場しています。

その最期は、石田三成、小西行長と共に京の六条河原で斬首されたと言われています。

 

島津豊久

島津豊久(しまづとよひさ)は、叔父の島津義弘(しまづとよひろ)とともに西軍に参戦。

西軍の敗北が濃厚となると、義弘は一時切腹を覚悟しますが、家臣の説得で考え直し、正面突破での撤退を決意します。

豊久は主君である義弘を逃がすために、身代わりとなって討ち死にしました。

関ヶ原の戦いの戦死の武将!東軍は誰が死んだ?

以降で東軍の武将についてご紹介しますが、関ヶ原の戦いで勝利したため、関が原で亡くなった有名武将はいませんでした。

しかし、関ヶ原の戦いが遠因となったのでは?と思われる3人を以降でご紹介します。

鳥居元忠

鳥居元忠は、関ヶ原の戦いの前哨戦と呼ばれる「伏見城の戦い」で籠城の末壮絶な最期を迎えました。

「どうする家康」でも描かれましたが、音尾琢真さんが演じる「彦」こと鳥居元忠と、その妻・千代との壮絶なシーンは涙を誘いましたね((+_+))

鳥居元忠の伏見城の戦いで活躍の史実の顛末とは?

 

井伊直政

「どうする家康」で板垣李光人さんが演じている井伊直政。

関ヶ原の戦いで先陣を切り勝利に貢献しましたが、そのとき銃撃を受けてけがを負いました。

それから二年後、その怪我がもととなり破傷風で亡くなったとも言われています。

 

小早川秀秋

当初は西軍に付いたものの、裏切った末に東軍について勝利の立役者となった小早川秀秋。

どうする家康では、嘉島陸さんが演じました。

小早川秀秋は、関ヶ原の戦いから2年後、酒の飲み過ぎによる肝硬変で死んだというのが通説ですが・・・

関ケ原で討ち死にした大谷吉継の祟りで死んだ?なんて噂もあるそうですよ。

小早川秀秋の関ヶ原のその後はどうなった?

関ヶ原の戦いの戦死者の数とは?

そんな、歴史を大きく変えた「関ケ原の戦い」。多くの有名な武将が戦死した関ケ原の戦いですが、一体何人の戦死者が出たのでしょうか?

1600年の9月15日に起こった「関ケ原の戦い」は、日本の当時の戦で一番の戦死者が出たと言われていますが、その数は諸説あり、正確な人数はわかっていないようです。

西軍の死者数は『関原始末記(徳川家康の動静関ヶ原の戦いを中心に日付を追って記されている)』によると8000人と言われていますが、一方で『関原軍記大成(関ケ原合戦の始末を記した戦記)』によると 32,600人とかなり幅があります(^^;

一方で、勝利した東軍の戦死者数は『関原合戦記』で10000名と言われていますが、4000人という説が濃厚だと言う資料もあります。

どちらにしても短い時間でかなりに人数が亡くなってしまった、大合戦だったことがわかる数字だと思います。

関ヶ原の戦いの戦死の武将まとめ

今回は「どうする家康」関ヶ原の戦いで戦死した武将についてご紹介しました。

西軍では、大谷吉継、島左近らが戦場で命を落とします。

石田三成や小西行長らは後に捕まって打ち首にされたと言われています。

勝利した東軍の武将は、関ヶ原の地で亡くなった有名な武将はいなかったものの、井伊直政は関ヶ原のときに受けた傷がもとで後に亡くなってたそう。

果たして「どうする家康」で、どこまで武将の死が描かれるのか?期待したいと思います!

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