大谷吉継【刑部】の死因と最後は?病気の病名についても

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松本潤さん主演NHK大河ドラマ「どうする家康」で関ケ原の戦いに参戦する白い頭巾の大谷吉継こと大谷刑部ですが一体どんな最後で死因は何なのでしょうか?「どうする家康」大谷吉継【刑部(ぎょうぶ)】の死因と最後についてまた病気病名についてご紹介します。

目次

大谷吉継【刑部】とは?どうする家康

鳥居元忠の死因と伏見城の最後とは?血天井はどこ?

松本潤さん主演NHK大河ドラマ「どうする家康」は、2023年11月12日についに関ヶ原の戦いが描かれます!

石田三成を演じるのは中村七之助さんで、その盟友ともいえる大谷吉継(おおたに・よしつぐ)こと大谷刑部(おおたに・ぎょうぶ)を忍成修吾さんが演じていますね。

大谷刑部といえば、白い頭巾を顔にまとって関ヶ原に参戦したことでも知られています。

病を患っていたのですが、その病気や壮絶の最期とは?

今回は「どうする家康」大谷吉継【刑部】の死因と最後とその病名についてご紹介します。

忍成修吾さん演じる大谷吉継は、朝鮮出兵が描かれたあたりから登場しました。

以下、公式で紹介されている役どころです。

豊臣家家臣、越前敦賀を治める大名。人望厚く秀吉、家康からも信頼される切れ者。

友人・石田三成と家康が対立を深める中、大病から復帰した吉継の決断が形勢を大きく変える。

引用元:公式サイト

大谷吉継こと刑部(ぎょうぶ)は、石田三成(中村七之助)の盟友ともいえる存在。

家康と対立する三成に対して、戦は無謀だと主張して、三成の息子を家康の軍に連れて上杉討伐に向かおうとしましたが・・・

三成の熱意に負けて、家康と対立する道を選んだ熱い男です。

そのころの大谷吉継は病を患っており、白い頭巾のようなものをかぶって登場していますね。

個人的には、いつも悪役を演じている忍成修吾さんが大谷吉継というかっこいい武将を演じているのがかなり胸熱なんですが(;^_^A

果たして、この後関ヶ原にて大谷吉継こと刑部にどのような運命が待ち受けているのでしょうか?

以降で、11月12日放送の「関ヶ原の戦い」のストーリーでの大谷吉継についてネタバレ紹介します。

大谷吉継【刑部】の死因と最後とは?小早川秀秋の裏切りで自害!

小早川秀秋が裏切った理由はなぜ?

ドラマでの死因と最後は?

秀忠(森崎ウィン)率いる主力軍が来ない。真田の罠にはまってしまったのだ。西軍に圧倒的に数で劣る家康(松本潤)は野戦での勝負を決断。決戦の地に関ヶ原を選ぶ。そして大量の密書をばらまき、敵に切り崩しを仕掛ける。優位に立つ三成(中村七之助)は呼応するように兵を進め、両陣合わせ15万が集結、天下分け目の大戦が始まる!一方、大坂では家康の調略に動揺する毛利輝元(吹越満)に、茶々(北川景子)は不満を募らせる。

引用元:公式サイト

徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の兵たちが集まり、天下分け目の決戦の時を迎えた関ヶ原。

東軍の福島正則は大垣城に攻め込もうとしますが、井伊直政は秀忠の本軍が来るのを待つべきだと進言。

そのころ家康の息子・秀忠は、信濃の真田昌幸によって足止めを食らっていて、関ヶ原の本戦に間に合うのは難しい状況でした。

家康は秀忠を諦めて、大垣城を放って関ヶ原に向かう決断をします。

夜、赤坂の陣を出た徳川軍が雨の中ゆっくり西に動き始めると、間を置かずに大垣城の石田三成らすべての軍勢が素早く城を出て西に向かいます。

西軍としては、先回りして関ヶ原にて東軍を迎え撃つ考えの様子。

夜が明けると雨が上がり、周囲山々に囲まれた関ケ原の地には、両陣営合わせて十五万の兵が集結していました。

東軍の家康は、小高い丘・桃配山に布陣。

背後を守るのは本多忠勝、前線には井伊直政軍。

一方の西軍の三成は、関ケ原北西の笹尾山に布陣します。

周囲には三成の右腕の島左近、薩摩の島津義弘が付いています。

笹尾山の南に位置する天満山には、宇喜多秀家と小西行長の西軍主力部隊が鎮座。

さらにその南に三成の盟友・大谷吉継が陣を敷きます。

そこから南下して中山道を超えた松尾山には大軍を率いた小早川秀秋が布陣。

西軍の吉川広家率いる毛利勢、土佐の長宗我部元親は、家康が布陣した桃配山の背後の南宮山に入ります。

三成は見事なまでに、徳川勢を取り囲むかたちで布陣することに成功し、このまま戦に突入すれば、東軍の負けは一目瞭然。

しかし家康は不思議と気分は悪くありませんでした。

そし東軍の井伊直政が先陣を切ったことで、各地で激しい戦闘が始まります!

地の利を生かし、西軍が有利に進みますが、決定打となる松尾山の小早川秀秋は動く様子は無し。

吉川が家康の背後を突けば小早川も動くだろうが、吉川率いる毛利軍はのらりくらりと言い訳を付けて動こうとしません。

このとき家康が「前へ出る」と進軍を始め、西軍も予想外の行動に総がかりで攻め込んできました。

敵は怯み、味方の士気が上がる中、家康は松尾山を見上げています。

「決断する時ぞ、小早川」

大筒を松尾山に撃とうという渡辺守綱に、「逆なでするな。天に向かって空撃ちせい」と家康は指示。

そして鉄砲隊が空に向かって一斉に空砲を撃つと・・・

ついに決断した小早川の大軍が一気に山を駆け下りて、大谷吉継軍に攻めかかったのです。

戦場を茫然と見下ろす三成のもとに、次から次へと寝返りの知らせが入ってきます。

さらに小西行長勢が総崩れとなったところに衝撃の一報が!

「大谷刑部殿、奮戦の末、ご自害あそばれた由」

刑部は病身でありながら指揮をとり、わずかの軍勢で二度も小早川秀秋の大軍を押し返したという。

盟友の死を知った三成は、この後島左近に諭されて、敗北を悟り関が原から去っていきます。

そして後日、東軍に捕まった三成は、京の六条河原にて斬首されるという結末です。

史実の死因と最後とは?

関ヶ原の戦いの戦死武将まとめ!西軍と東軍は誰が死んだ?

それでは、史実の死因と最後についてご紹介です。

いざ関ヶ原では、5700の兵を率いて出陣。

このころの吉継は、以降で詳しくご紹介しますが、病気が重くなっていて、馬に乗ることもままならなず、輿にのって戦場に駆けつけたとされています。

吉継は、小早川秀秋率いる15000の寝返りを予見し、小早川が陣取った松尾山のふもとに布陣しました。

そして小早川が寝返ると、大谷軍に襲い掛かってきました。

このときの吉継率いる大谷軍は、小早川軍を撃退するなど奮戦!

しかし、予想だにせず朽木、脇坂などの他の西軍が裏切ったことで、大谷軍は四方を囲まれてしまい壊滅状態に。

こうして吉継は敗北を悟り自害しました。

大谷吉継は死の直前に、病で崩れた自らの顔が敵に渡ることが無いよう、家臣の湯浅五助に言い含め介錯させます。

その首は五助によりどこかに埋められ、吉継の首は最後まで発見されなかったそうです。

そんな壮絶な最後と遂げた刑部ですが、一体どんな病気を抱えていたのでしょうか?

大谷吉継【刑部】の病気の病名についても

ここで気になる大谷吉継こと刑部の病気についてもご紹介します。

大谷吉継の病は、今でいうところのハンセン病だと言われています。

かつては「らい病」と呼ばれており、らい菌という抗酸菌がおこす慢性の感染症で、おもに皮膚、末梢神経を侵しますが、眼、鼻・のど・口などの粘膜、一部の内臓にも病変が生じる病です。

斑点ができたり腫れたりしている顔を隠すために、白い布で顔を覆っていたと考えられます。

そんな大谷吉継は、近江に生まれて、盟友の石田三成よりは5歳年下でした。

三成とともに秀吉に見いだされた吉継ですが、のちにハンセン病を患っていくことになります。

そんな三成と吉継のエピソードがあるんです。

とある大阪城のお茶会で、吉継が飲んだ茶碗を他の武将たちが飲むことを控えます。

それは茶碗に入った吉継の皮膚で、病気がうつることをことを恐れたから。

しかし、三成ただ一人がその茶を飲み干しました。

「どうする家康」でも、このエピソードを模して、吉継の茶を飲んだ三成のシーンがありましたね。

このエピソードからも分かるように、吉継にとって三成は生涯の共と呼ぶべき存在だったのでしょう。

そんな三成から頼まれてしまったら、無謀と分かっていても関ヶ原での挙兵を断ることが出来なかったのだと思います。

大谷吉継【刑部】の死因と最後まとめ

【どうする家康】最終回はいつ?何話まで放送?

今回は「どうする家康」で忍成修吾さんが演じる大谷吉継こと刑部について紹介しました。

三成の盟友で、西軍として奮戦しながらも小早川秀秋の裏切りによって自害した吉継。

病を押して関ヶ原に参戦しており、その病はいまでいう「ハンセン病」だっとされています。

11月12日放送の第43回では大谷吉継がかなり活躍すると思いますので是非皆さんご期待ください!

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