やなせたかしの世界旅行の漫画家の仲間はずれ事件は実話だった!

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朝ドラ「あんぱん」で柳井嵩(北村匠海)が漫画家集団の「独創漫画」から世界旅行に誘われなかった仲間はずれになったことが話題になっていますが、やなせたかしさんの実話だったんです!

「アンパンマン」の作者・やなせたかしさんが、かつて漫画家仲間たちの世界旅行に“誘われなかった”史実をご紹介!

世界旅行のメンバーとは?

この仲間外れによって、実は大きな成功をおさめることになります!

目次

たかしが「独創漫画」から世界旅行に誘われなかった切ない仲間外れが話題に

たかしが「独創漫画」から世界旅行に誘われなかった

9月2日放送「あんぱん」での切ないエピソードが話題になっています。

嵩(北村匠海)は、健太郎(高橋文哉)から「独創漫画派の仲間たちが世界旅行に出かけた」という話を耳にします。

自分だけ誘われなかった事実に大きなショックを受けた嵩。

その事実を人から聞かされるのは、更に辛いことですよね・・・。

「自分が情けない」と自嘲するように語る崇。

このとき、妻であるのぶ(今田美桜)は、嵩の傷ついた心を汲み取り、「あたしが悔しい」と怒りをにじませながら、あんぱんを作っているたねをたたきつけます。

そして彼の手を取り、外へ飛び出していくという展開に。

実は実話のエピソードだった!

SNSでも「漫画家仲間と世界旅行に誘われ無かったなんて凹むね」など切ない展開に反響が。

この崇がかわいそうだったエピソード。

実際のやなせたかしさんが若手漫画家だった頃、漫画集団の世界旅行に誘われなかったという実体験に基づいています。なんと実話だったんです!

ムック本「やなせたかしと小松暢の人生」にも記載されていました。

以降で詳しくご紹介していきます。

【実話】やなせたかし 世界旅行 仲間外れのエピソードとは

やなせたかしさんが「仲間外れにされた」と感じたエピソードは、彼の人生において大きな転機となる出来事でした。

漫画家仲間たちが海外旅行へ行った際、自分だけ声をかけられなかったという実体験がありました。これは一時的な落ち込みにとどまらず、創作の原動力へとつながっていきます。

1960年代後半、当時のやなせさんは漫画集団という団体に所属していました。

この集団には、のちに漫画界を牽引することになる名だたるメンバーが多数参加しており、定期的な総会や忘年会なども開催されていました。

その忘年会などに参加するのを楽しみにしていたというやなせたかしさん。「大人の学芸会みたいで楽しかったですよ」と語っていました。

しかし、やなせさんはその中で「存在していないような扱いを受けた」と後に語っています。

特に決定的だったのが、仲間たちによる海外旅行計画から自分だけが外されていたという事実です。

この経験をきっかけに、やなせさんは「見返してやろう」という強い気持ちを持ち、ある作品を描き始めました。

その作品が後に「グランプリ」を獲得することになります。つらい経験が新たな挑戦の種となったこのエピソードは、悔しさや孤独を創作エネルギーに変える強さを教えてくれます。

 1-1. 「独立漫画派」「漫画集団」から外された理由とは?

ドラマの独創漫画派のモデルはやなせたかしさんが所属していた「独立漫画派」「漫画集団」だと思われます。

やなせさんが属していた「独立漫画派」は、小島功さんを中心とした新しい表現を追求する集団でした。そこには個性的で表現にこだわりを持つ漫画家たちが集まり、独立心の強い雰囲気があったとされています。

そして漫画集団は1960年代以降に手塚治虫さん、赤塚不二夫さん、石森章太郎さん、藤子不二雄さん、上村一夫さん、ちばてつやさんたちが相次いで参加したすごい集団だったんです。

当時のやなせさんは、会社勤めをしながら作品を投稿する立場で、いわば“漫画家としての修行中”とも言える状況でした。

肩書きや知名度で判断されやすい業界のなかで、「まだプロとして一線ではない」と見なされていた可能性が高いです。その結果、海外旅行のような“選ばれた者たちの企画”からは無意識に外されていたのではないかと考えられます。

さらに、やなせさん自身も後年の著書で「当時の自分は相撲でいえば序二段」と表現しています。この謙遜とも取れる発言からは、自らの未熟さを冷静に受け止めていたことが伝わってきます。しかし、これが後に大きな飛躍のきっかけになるのです。

1-2. 仲間外れの真相に迫る:当時のやなせの立場と評価

やなせさんが仲間外れになった背景には、当時の漫画業界の「階層構造」が色濃く関係していました。以下に、当時のやなせさんのポジションと、周囲の漫画家たちの比較をまとめました。

項目 やなせたかし 他の漫画集団メンバー
キャリア 三越の社員→投稿漫画家 人気作家として活躍中
代表作 まだヒット作なし 『まっぴら君』『仙人部落』など
社交的立場 存在感が薄い 中心的存在として交流
自己評価 「序二段レベル」 トップクラスと交流多数

やなせさんは、集団の中でも目立たない存在だったと率直に語っています。

また、招待されなかった事実に対して「自分が存在していないのと同じだった」と感じるほど深く傷ついた様子が、自伝から読み取れます。

このように、自分だけが旅行に誘われなかったという体験は、社会的な孤立感と創作者としての挫折感を同時に味わう出来事でした。

世界旅行に行った漫画家たちメンバーとは?

やなせたかしさんが仲間外れにされた漫画集団の「世界旅行」。

この旅に参加していたのは、当時の漫画界を代表するそうそうたるメンバーたちでした。単なる観光旅行ではなく、親交の深さや信頼関係の象徴とも言える集まりであったことがわかります。

このセクションでは、そのメンバーとやなせさんとの関係性に焦点を当てながら、漫画集団というコミュニティの内情を深掘りしていきます。

2-1. 手塚治虫、赤塚不二夫ら“漫画界の巨星”が世界旅行の参加メンバー?

世界旅行の事件が会った時に、やなせさんが在籍していた「漫画集団」には、以下のようなビッグネームが名を連ねていました。

  • 手塚治虫:「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」など数々のヒット作品を生み出す
  • 赤塚不二夫:『おそ松くん』「天才バカボン」 などギャグ漫画の王様
  • 石ノ森章太郎、藤子不二雄:後に国民的キャラクターを生み出す巨匠コンビ
  • 加藤芳郎:47年間も新聞連載を続けた『まっぴら君』の作者

これだけの顔ぶれが揃う中で、やなせさんは「まだ名前が知られていない存在」だったのです。つまり、彼らと肩を並べるにはまだ早いという空気があった可能性が高いと考えられます。

このメンバー全員が世界旅行に行ったという事実はわかりませんでしたが、このような大物たちが一緒に参加した旅行だったと思われます。

また手塚治虫さんについては、以下の年表サイトで1967年(昭和42年)で39歳の時に「漫画集団」の世界旅行に参加と記載されているので、世界旅行に行ったメンバーの1人だったことが分かっています。

このことから「漫画集団」のメンバーで世界一周旅行に行ったのは、事実だったことがわかります。

引用元:引用サイト

 2-2. 漫画集団の“学芸会”と忘年会エピソードにみる温度差

漫画集団は、年に一度の箱根での忘年会を「大人の学芸会」と表現するほどに、エンターテインメント性と交流の深さを大切にしていました。そこでは、次のようなユニークなエピソードが飛び交っていました。

  • 画家・谷内六郎が少女の扮装で歌い、貧血を起こして倒れた
  • 手塚治虫がアコーディオンを演奏し、観客を魅了した
  • 赤塚不二夫が下ネタに走りすぎて警察が出動した

これらの逸話から見ても、メンバー同士の関係は非常に近く、ある種の“内輪ノリ”が強かったことがうかがえます。

やなせさんはそんな忘年会への参加を楽しいと思っていただけに、世界旅行に誘われなかったのは、非常に切ないですね。

 仲間外れの悔しさが生んだ「ボオ氏」とは何か

やなせたかしさんが世界旅行から外されたという事実は、失意に終わらず創作意欲に火をつけました。その結晶が、彼の人生を変えるきっかけとなった4コマ漫画『ボオ氏』です。

この作品は、単なる成功物語ではなく、「孤独」と「普遍性」をテーマにしながらも、やなせさんのクリエイターとしての本質を鋭く表現しています。

 3-1. 世界旅行中に描かれた“無言の4コマ”

1967年、やなせさんは新聞広告で「週刊朝日」の漫画賞を知ります。グランプリを獲得すれば、半年の連載と100万円の賞金という内容でした。

このとき描いたのが、『ボオ氏』というセリフのない4コマ作品です。言葉を一切使わない構成にした理由は、以下のとおりです。

  • 「世界中どこでも伝わる表現にしたい」という普遍性の追求
  • 主人公の顔を帽子で隠し、読者に自由な解釈を委ねたデザイン

週刊朝日では全24話が連載され、最終的には見事グランプリを獲得します。漫画家仲間が旅行を楽しんでいるその間、やなせさんは机に向かい、創作で勝負をかけていたのです。

 3-2. 『ボオ氏』誕生の裏にある「普遍性」と「孤独」

『ボオ氏』は、単に賞を取るために作られた作品ではありません。そこには、言葉を使わずとも伝えられる“心の動き”と、社会から見えない存在として扱われた作者自身の孤独が込められています。

やなせさんが込めたメッセージは次の3点に集約されます。

  • 誰にも理解されない寂しさを、無言で表現する
  • 名もなき存在の価値を認めてほしいという願い
  • 世界中どこでも伝わる“心のユーモア”を描く挑戦

作品がもたらした結果は、やなせさんにとって「冬枯れの道に差し込んだ一条の光」となりました。そして、この挑戦がのちの『アンパンマン』誕生へとつながっていくのです。

 

 グランプリ受賞という逆転劇とその後の葛藤

仲間外れという挫折を乗り越えたやなせたかしさんは、1967年に週刊朝日が募集した漫画賞へ応募し、グランプリを獲得します。この逆転劇は華々しい成功のように見えますが、その裏には意外な展開や、やなせさんらしい控えめな姿勢も隠されていました。

創作への情熱が結実した喜びの裏で、受賞後の対応や家族の反応から見えてくるのは「本当に報われたのか?」という問いです。やなせさんが語る葛藤や裏事情に触れると、栄光の意味がより深く感じられるようになります。

 4-1. 100万円の栄光:週刊朝日漫画賞の裏側

1967年、やなせさんは「プロアマ問わず」という文言に背中を押され、週刊朝日の漫画賞に応募します。プロとしての自尊心を保ちながらも、落選のリスクに不安を感じつつ、変名を使わず“やなせ・たかし”名義で堂々と応募しました。

提出した作品『ボオ氏』は、セリフを一切使わない4コマ漫画で構成されており、全24話を描き上げて持ち込んだと語られています。そして、見事グランプリに輝き、賞金100万円と連載の権利を獲得しました。

しかし、ここで明かされる裏話が興味深い点です。

受賞後の意外な展開 内容
授賞式がなかった 編集長がコンサート会場で手渡し
企画は1回限り 週刊朝日漫画賞はその1回で終了
話題性はあった 全国紙で報道され、多くの祝福を受ける

本格的な授賞式が開催されなかったことや、その後に継続されなかった賞であったことは、やなせさんにとって少なからず複雑な気持ちを残しました。形式的な栄光ではなく、本質的な意味を大切にしていたやなせさんらしいエピソードです。

 4-2. 「喜べない」妻とのやりとりににじむリアル

グランプリ受賞という朗報を受けたやなせさんが、まず妻・暢(のぶ)さんに伝えた言葉は「まだ信じられない。嘘かもしれないから喜ばないでほしい」というものでした。

この一言が、夫婦の感情にすれ違いを生みます。実際にやなせさんが100万円の賞金を持ち帰ったとき、暢さんはこう語ったとされています。

「あんたがよろこぶなというもんだから、よろこばないようにがまんしているうちに、あんまりうれしくなくなった。でもおめでとう。」

このエピソードから見えてくるのは、家族との素朴で慎ましい関係性と、やなせさんが“栄光に浮かれすぎない”よう自制していた姿勢です。感情を率直に表現することが苦手だった彼の人間味と、夫婦の絆がにじむやりとりは、多くの読者の共感を呼びます。

 アンパンマン誕生前夜:仲間外れが与えた影響

やなせたかしさんがグランプリを獲得したあとも、すぐに大ブレイクを果たしたわけではありません。しかし、その経験が“自分にしか描けない作品”への意識を大きく変えました。そして、やがて誕生することになるのが、日本中で愛される『アンパンマン』です。

仲間外れの経験がなければ、アンパンマンは生まれていなかったかもしれません。失意の底で培った想像力と人間理解が、ヒーローの原点になっていきます。

 5-1. “序二段”から国民的ヒーローへ

やなせさんは、自伝『アンパンマンの遺書』の中で当時の自分をこう評しています。

「相撲の番付でいえば序二段ぐらいのところだ」

つまり、漫画家としては無名に近い立場であり、表舞台からは遠い場所にいたことを認めていました。世界旅行に誘われなかったのも、そうした“見えない存在”と見なされていたからです。

しかし、やなせさんはそこで諦めず、自分にしか描けないものを探し続けます。そして、「正義とは何か」「本当に人を助けるとは何か」を追求する中で、のちにアンパンマンが誕生します。

アンパンマンの特徴と、やなせさん自身の人生は深く重なります。

アンパンマンの特徴 やなせさんの経験
顔をちぎって人に与える 自己犠牲と愛を重視
飢えた人を助ける 戦争・飢餓の経験から発想
特別な力は持たない 普通の人間ができる正義を描いた

無名の漫画家だったやなせさんが、最終的に“子どもたちのヒーロー”として不動の地位を築いた背景には、地道な努力と誠実な創作姿勢があります。

 5-2. 世界に通じる作品を求め続けた背景

『ボオ氏』をセリフなしで構成したやなせさんは、「世界中どこでも理解される表現」にこだわりを持っていました。この姿勢は、のちのアンパンマンにも引き継がれていきます。

なぜ、やなせさんは“言葉に頼らない普遍性”を求め続けたのでしょうか? そこには戦中を生き抜いた個人的な原体験が深く関係しています。

  • 戦争体験から「飢え」や「不条理」を見つめ続けた
  • 言葉では伝わらない“人間の温かさ”を描きたかった
  • 絵だけで世界に通じるストーリーを構築したかった

アンパンマンもまた、見た目やセリフ以上に「行動で語る」キャラクターです。やなせさんが苦悩の中で掴んだ「誰にでも届く優しさ」の追求が、世界中の子どもたちに届いた理由と言えるでしょう。

 やなせたかし 世界旅行 仲間外れ事件が示す、クリエイターの孤独と再生

世界旅行に誘われなかったというたった一つの出来事が、やなせたかしさんの人生を大きく動かしました。仲間に見捨てられたような思いを乗り越え、やなせさんは自分の表現を模索し、結果として“唯一無二の存在”になっていきます。

この出来事は、創作者にとって「無視されることの痛み」と、それを「再生のきっかけ」に変える力の両方を教えてくれます。

 6-1. 無視される才能は本当に“無”なのか?

一度も声をかけられず、旅行にも誘われなかったやなせさんは、心の底から「自分はこの世界にいないのと同じ」と感じたと語っています。

しかし、それでも創作をやめなかったことが、結果として自分の道を切り開くきっかけになりました。周囲に認められないからといって、才能がないとは限りません。むしろ、その“見えない時間”にこそ、真の力が育まれていたのです。

このエピソードから学べるのは次のような視点です。

  • 仲間外れは、自己否定ではなく創作エネルギーに変えられる
  • 才能は“評価される順番”があるだけで、失われていない
  • 居場所がなくても、自分の表現を持てば道は拓ける

 6-2. 今こそ読みたい『アンパンマンの遺書』の一節たち

やなせたかしさんが晩年に記したエッセイ『アンパンマンの遺書』には、彼の人生哲学が凝縮されています。特に仲間外れのエピソードに関連する箇所からは、次のようなメッセージが読み取れます。

  • 「自分が存在しないと同じだと思った」
  • 「冬枯れの小道に一条の光が差したようだった」
  • 「誰にも言えなかった寂しさを、絵で描くしかなかった」

表現者として、苦しみを作品に変える力。自分だけが描けるものを信じ抜く信念。こうした心の強さがあったからこそ、やなせさんは“国民的作家”へと成長したのです。

いま孤独や挫折を感じている人ほど、この一冊の言葉に心が救われるかもしれません。

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