小林一三と牧野富太郎との関係・接点と寿衛子についても

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NHK連続テレビ小説・朝ドラ「らんまん(ランマン)」は主演の神木隆之介(かみきりゅうのすけ)さん演じる植物学者・槙野万太郎(まきのまんたろう)の波乱の人生を描くストーリーで、主人公の万太郎は、実在の植物学者・牧野富太郎(まきのとみたろう)さんがモデルになっています。

「らんまん」では最終回に向けて、銀行員で、後に大物実業家となる小林一三(こばやしいちぞう)が、登場します!

天性の歌声を持ち、ミュージカル界でご活躍の海宝直人(かいほうなおと)さんが演じる小林一三。

小林一三のモデルは実在の、同名の実業家です!宝塚劇場や東宝劇場の創始者で、テレビでもおなじみの松岡修造さんの曾祖父にあたる小林一三さん!

朝ドラ「らんまん」では、浜辺美波(はまべみなみ)さんが演じる寿恵子(すえこ)が経営する待合茶屋待合茶屋「山桃(やまもも)」に、客としてやってきます。

寿恵子に大きな影響を与える人物となりそうですが、史実では小林一三さんと槙野万太郎(まきのまんたろう)のモデル、牧野富太郎(まきのとみたろう)さんと妻の壽衛子(すえこ)さんとは、どんな関係だったのでしょうか?

今回は朝ドラ「らんまん」に登場する小林一三とと牧野富太郎さんそして妻の寿衛子さんとの接点と関係についてご紹介させていただきます!

目次

小林一三とは?牧野富太郎と接点はあった?

らんまん渋谷編キャスト!荒谷のおじさん役やフミ役の那須凛など

らんまんの小林一三とは?

実業家・小林 一三(こばやし・いちぞう):海宝直人

銀行員だが、のちに鉄道事業などを手がける大物実業家となる。
寿恵子が開いた店に客として訪れる。

海宝直人さんのコメント

今回、阪急電鉄の創業者で、宝塚歌劇団をはじめ日本の演劇の礎を築いた小林一三さんを演じさせていただいだきました。日頃、演劇に携わっている人間としてとても光栄に思います。
和やかな空気流れる撮影現場で、浜辺さんはじめ素敵な皆さんと一緒に芝居ができて幸せな時間でした。
食事をしながらのシーンでしたが、これが本当に美味しかった!ぜひ皆様そちらにもご注目ください!

引用元 NHK公式サイト

実在の小林一三とは?牧野富太郎との接点は?

らんまん渋谷道玄坂が田舎だった弘法湯や練兵場など史実とは?

小林一三さんは1873年生まれ。牧野富太郎さんより11歳年下で、寿衛子さんとは同い年です!

山梨県の裕福な家に生まれますが、生まれてすぐに母親が亡くなり、父親とも生き別れとなり叔父夫婦に育てられました。

1888年、福沢諭吉の慶應義塾に入り、のちの慶應義塾大学を卒業後は三井銀行(現在の三井住友銀行)に入行します。

三井銀行では東京本店の主任まで務めましたが、34歳のときに退社。

三井物産の大物、飯田義一さんや、かつての上司で現在の三菱東京UFJ銀行を設立した岩下清周さんに誘われ、新しく設立される証券会社に行く予定でした。

ところが恐慌でこの話がおジャンになり、妻子を抱えたまま失業してしまいます。

そのころ国有化された現在のJR福知山線の関係者が、福知山線と並行する電気鉄道路線を設立しようとしていました。

ところがこちらも恐慌のため資金が集まらなかったそうです。

そこで小林一三さんは岩下さんを説得し、北浜銀行が株式を引き受けることになりました。

1907年に「箕面有馬電気軌道」として設立し、小林一三さんは専務に就きます。ですが社長不在だったので、実験は小林一三さんが握っていたそうです。

事業は1910年に開業し、小林一三さんは沿線の土地を買い上げていきます。

集客のため、沿線に動物園や大浴場なども設立。のちの宝塚歌劇団も創り上げました。

またサラリーマンでも購入できるよう、当時珍しかった割賦販売による分譲販売もおこない、事業は成功します。

1920年には日本で初となるターミナル・デパートの建設を始め、1929年に阪急百貨店をオープンさせました。

小林一三さんが社長に就任したのは1927年です。

その後も1929年に六甲山ホテルを建設、1932年には東京宝塚劇場を、1937年に東宝映画をと、次々と事業を成功させていきました。

1940年には商工大臣に就任し、戦後は国務大臣も務めます。

お亡くなりになったのは1957年、84歳のとき。急性心臓性喘息によるものでした。

銀行を辞めたあと、多くの事業を成功させてきた大実業家の小林一三さん!

牧野富太郎さんと関係はあったのでしょうか?

小林一三と牧野富太郎との関係や接点は?

らんまん小林一三のモデルは実在の実業家!銀行員から転身!

小林一三さんと牧野富太郎さんに接点はありました!それはアイジサが生んだ縁です♪

戦中から戦後にかけ、六甲山を訪れる人がいなくなり、すっかり六甲山は廃れてしまいました。

植物好きな小林一三さんはこれを嘆き、もとはキレイなあじさいが咲いていた六甲山に、アジサイの苗を提供したいと考えます。

当時六甲山小学校の教師だった、林中元さんという先生が相談を受け、アジサイを植栽したのです。

その苗がヒメアジサイ。ヒメアジサイは、1929年に牧野富太郎さんが命名した、エゾアジサイの品種。

六甲山の酸性な土壌でヒメアジサイは美しいブルーの花を咲かせ、六甲ブルーと呼ばれ愛されてきました。

1933年に「六甲高山植物園」が開園され、この監修をしたのが牧野富太郎さんでした!

開園のときは牧野富太郎さんも来園されたそうです♪もしかしたら小林一三さんも来園されたかも?

その後小林一三さんは「六甲経営株式会社」を設立し、六甲山ホテルや、山上の住宅地の経営などをされています。

植物が好きで植物園なども作っていたという小林一三さん。牧野富太郎さんともお話が合いそう!

どこかで植物談義などをしていたかもしれませんね。

小林一三と牧野富太郎の妻・壽衛子との関係や接点は?

小林一三役の俳優は海宝直人!らんまんで実業家役の出演作品は?

壽衛子さんが待合「いまむら」の経営を始めたのは、牧野富太郎さんの自叙伝によると、大正の半ば過ぎとのこと。

西暦でいうと1920年ころです。

朝ドラ「らんまん」で寿恵子が渋谷に初めて行ったのは、明治30年とありました。1897年です。

「らんまん」で寿恵子が待合を始めるのは、おそらくもうすぐのことだと思うので、史実とは年代がけっこう違っているようですね。

待合(まちあい)とは貸座敷のことで、料理を作らない料亭のような存在。芸妓さんを呼んで酒席を開いたり、密談や会議などに利用するところです。

このとき小林一三さんは、すでに銀行を退社していて、「箕面有馬電気軌道」の経営に携わっていました。

1920年に小林一三さんは日本で初となる、ターミナル・デパートの建設に着手していて、阪急百貨店もオープンさせています。

ドラマ「らんまん」では、銀行員として待合にやってくるので、こちらも史実とは設定が違いますね。

渋谷駅が現在の位置に移ったのが1920年。ちょうど壽衛子さんが待合を始めたころです。

道玄坂がにぎわうようになり、隣接している円山町は、小さな花街へと変わっていきました。

朝ドラ「らんまん」でみえ(宮澤エマ)が言ってましたが、実際に渋谷に練兵所も設立されています。できたのは1909年。

待合は1913年に13戸あり、1919年にはさらに数を増やしたそうです。

寿衛子さんはちょうどいいときに、待合の経営を始めたのでしょうね。

関東大震災が起きたのが1923年。今からちょうど100年前です。

「いまむら」は震災による倒壊は免れたようですが、のちの不況により貸し倒れが生じ、廃業してしまいます。

おそらく経営されていたのは、5年ほどではないかと思います。それでも苦しかった牧野家の家計の大きな支えとなったそうです。

その後1932年ころから富国強兵政策が始まり、大きな兵舎が作られると「円山花街」と呼ばれさらに渋谷は発展していきました。

さて、小林一三さんと寿衛子さんですが、小林一三さんの史実からも、おふたりの関係については何も出てきません。

史実と設定が違うこともあり、寿恵子と小林一三の関係はフィクションであると思われます。

小林一三と牧野富太郎との関係・接点と壽衛子についてものまとめ

らんまん槙野寿恵子の死亡と死因ネタバレを史実から!

NHK連続テレビ小説「らんまん」に、これから海宝直人さんが演じる小林一三が登場します!

小林一三のモデルは同名の実業家で、宝塚歌劇団や東宝映画などの創始者!鉄道王とも呼ばれていました。

「らんまん」で小林一三は銀行員として登場しますが、実際に寿衛子さんが待合の経営をしていたころ、小林一三さんはすでに銀行を退社し、のちに阪急電鉄となる企業で手腕をふるっていました。

おふたりに面識があったという史実も見当たらないので、「らんまん」小林一三と寿恵子の出会いはフィクションだと考えられます。

ですが小林一三さんと牧野富太郎さんには接点がありました!

大の植物好きだったという小林一三さんの提案で、牧野富太郎さんが命名したヒメアジサイが六甲山に植えられたのです。

開園のときには牧野富太郎さんも来園され、写真も残っているそうです。

朝ドラ「らんまん」でこの3人が、どのように関わっていくのか注目したいですね!

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