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わろてんか戦争の吉本興業の芸名統制令などネタバレ史実は?戦後の道のりについても

厳しい内務省の映画に対する検閲ですが、映画法が制定され、またさらにややこしいことになってきた「わろてんか」。

北村笑店&伊能栞(高橋一生)による映画「お笑い忠臣蔵」も危ないところでしたが、おてんさん(葵わかな)の機転で切り抜けられそうな雰囲気になってきましたね。

そこで今回は、戦争中の吉本興業や日本の芸能についてまとめました。吉本興業も芸名統制令の影響を受けたのでしょうか?

戦争中の日本の芸能史や、戦後にかけての道のりとはどのようなものだったんでしょうか?

 

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わろてんかに出てくる映画法とは?

映画法は実際にあった法律で、1939年に制定されました。

日本は日中戦争下で軍国主義政策へと向かう中、映画を国の管理下におくために作られました。

「わろてんか」でもこの法律ができる前は、出来上がった映画を見て検閲が行われましたが、法律制定後は台本からチェックするというより厳しいものになりましたね。

実際も同じで台本から検閲され、軍国主義の映画を半ば強制的に製作させられたり、娯楽色も排除されることになりました。

ニュース映画や文化映画の強制上映や、外国映画の排除もされ、この頃映画の上映本数もかなり減ってしまいます。

これからもしそんな時代がきたら? と想像するとゾッとしますね。

結局この映画法は1945年の終戦のあとまもなく廃止されました。

こんな関連書籍があります。

 

 

 

戦争中の吉本興業は何をしていたの?

「わろてんか」で北村笑店は厳しい検閲が行われる中、試行錯誤をしながら映画を作ろうとしていますが、吉本興業は戦争中どうしていたのでしょうか?

映画法が施行されたのは1939年、日中戦争のときでしたが、時代は太平洋戦争へと巻き込まれていきます。

1941年に始まった太平洋戦争ですが、最初こそ勢力を拡大していきますが、戦争が長引くにつれ戦争も人々の暮らしにも暗い影を落としていきます。

こんなスローガンがありました。

欲しがりません 勝つまでは

だんだん庶民の暮らしも質素になり(それまでも決して贅沢な暮らしではありませんでしたが)娯楽というものにも規制がかかるようになります。

こんな窮屈ななか、吉本興業はどうしたかというと、モンペを着た芸人たちが慰問をするという仕事をメインにするようになります。
ですが芸人たちもどんどん戦争に駆り出され、舞台に立てる芸人が減っていきました。

吉本興業にとって最も被害が甚大だったのが1945年の大阪大空襲でした。

大阪にあった吉本興業の劇場はほとんど灰となり、舞台がない以上芸人を置いておくわけにもいかず、花菱アチャコ(アサリのモデル)を除く全ての芸人と契約を解除します。

結局戦争が終わって焼け残った吉本興業の劇場は「難波大阪花月劇場」と「常盤座」のみ。

ですがここで挫けないのが吉本せいの弟、林正之助(風太のモデル)です( ´ ▽ ` )ノ

終戦からわずか2週間でアチャコらによる公演をおこないました。

その後も花菱アチャコはラジオや映画で大人気、喜劇界のトップとして長く君臨することになります。

 

戦争中の日本の芸能は抑圧されていた?芸名統制令が吉本興業にも!

 

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戦争が長引く中、こんな標語が氾濫するようになりました。

撃ちてし止まむ

これは「敵を撃ち、滅ぼすまでは倒れない」という意味です。

このときの”敵”とはアメリカのことで、アメリカの映画や音楽、も「敵性文化」として禁じられました。
言葉に関しても随分と変更させられています。

ミスワカナ→玉松ワカナ

あきれたぼういず→新興快速舞隊

キングレコード→富士音盤

日本ビクター→日本音響

野球のストライク→よし

野球のアウト→ひけ

どうです?
あきれたぼういずなんかは、もはや原型がどこにもありません(笑)

そして終戦1年前の1944年、「決戦非常措置要網」というものが公布されます。

これはアメリカとの戦いに集中するというもので、この中のひとつにこんな条項がありました。

高級享楽の停止

これは映画や寄席、他にもカフェや遊郭といったものまで閉鎖され、旅行なども制限されました。

いつくるかわからない空襲に怯える毎日だったので、呑気に映画を見ている余裕などなかったとは思いますが、庶民に与えた影響は大きかったはずです。

なんども思いますが、こんな時代は絶対にきてほしくありません!

そして終戦間際の頃には日本中の大都市は焼け野原となり、多くの劇場が灰となってしまいました(T . T)

戦争で娯楽は抑圧され、戦争が終わったら劇場がなくなり芸能を披露できる場がなくなっていた・・・。

悲しい事実ですが、戦後はどうなっていくのでしょうか?

 

戦後の吉本興業はどうなっていった?

戦後の焼け野原となった日本は、マッカーサー率いるGHQが統治し、復興へと歩き出します。

林正之助が2週間で舞台を行ったように、映画も終戦からわずか2ヶ月後に「そよかぜ」が封切られます。

 

 

まだ生きていくだけで精一杯だった庶民にとって、それどころではない状況でもありましたが、いつまでも下を向いているわけではありません。

だんだん人々は楽しみを求めるようになっていきます。

そんな中芸人と契約を解除していた吉本興業は、映画に目を向けます。
東京の「大都劇場」「大阪花月劇場」祇園の「グランド会館」など残っていた劇場を、洋画館を含めどんどん映画館へと転換、本格的に映画制作を始めるようになります。

またGHQの米兵たちのための娯楽施設にも乗り出します。

キャパレー「グランド京都」をオープンさせ、戦後は映画とキャバレー経営が吉本興業を支えました。

終戦翌年に東京の吉本が大阪から独立し、東京大泉に太泉スタジオを設立、花菱アチャコを始め、横山エンタツ(キースのモデル)など芸人の他にもあきれたぼういずの川田晴久に見出された美空ひばりなどが大ブレイク。

 

 
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また吉本興業俳優には山村聡、高峰秀子といったトップスターもいました。

このように常に先見の目を持ちながら、時代の先を駆け抜けてきた吉本興業。

その後テレビが登場すると、いち早くテレビを取り入れたビジネスモデルへと展開し、現在の吉本興業へと継がれてきました。

 

まとめ

娯楽にとって戦争中は不遇の時代でした。

史実でいくと「わろてんか」もこれからもっと検閲が厳しくなると思います。

「お笑い忠臣蔵」なんとか上映してほしいですね!

 

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