わろてんかで寄席経営って本当にあったの?史実や原作でのネタバレまとめ

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朝ドラ「わろてんか」はヒロインてんと藤吉郎の2人がいよいよ寄席経営に乗り出します。

ヒロインてんは実在の人物吉本せいをモデルにしたストーリーなのですが、実際の歴史でも寄席経営などあったのでしょうか?

そもそも寄席とはどういうものなのか?

また実際のモデル吉本せいと夫との寄席経営の歴史についてまとめてみました。

 

 

わろてんかに出てくる寄席経営の史実の始まりとは?

ヒロインてんのモデルになった吉本せいの夫。藤吉郎のモデルになった人は吉本せいの夫である吉本吉兵衛です。

ドラマと同様、吉本吉兵衛の実家の事業は借金で潰れてしまいます。

しかし、ドラマとは少し事情が違っていて、実家の事業がつぶれた事情は吉本吉兵衛の道楽によるものでした。

吉兵衛は家業をそっちのけで芸者遊びや芝居、落語などに没頭してしまい、不況のあおりをうけたこともあり、家業は廃業してしまいます。

実際の旦那はなかなかのどうしようもない道楽夫だったようです(^_^;)

ちなみにドラマでは家業は「米問屋」でしたが、実際の歴史では喜兵衛の実家は荒物問屋で今でいう生活雑貨を扱うお店でした。

 

家業が廃業してしまった後、吉本せいは吉兵衛に「そこまで芸事が好きで芸人が好きならば、自分で寄席は始めはったらどうですか?」とすすめたそうです。

そしてその頃、ちょうど天満宮裏門にあった第二文藝館という寄席が売りに出されていたので、せい夫婦は借金までして明治45年(1912年)4月1日、第二文藝館で寄席経営を開始しました。

吉兵衛が25歳、せいが22歳の春のことでした!

 

当時の寄席事情と史実の成功への道のりとは?

 

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2人が寄席経営を始めた大阪天満宮裏では「天満八軒」と呼ばれる8つの小屋が並び、飲食店も密集して大変賑わっていたそうです。

しかし当時の「天満八軒」の小屋はどれも格が低く「端席」と呼ばれ第二文藝館はその中でも客入りが悪かったそうです。

それでも売りに出ている小屋を聞きつけて、2人は四方八方から資金を調達、二文藝館を手に入れたのでした。

吉本夫妻は何もないところからのスタートだったので、所属する芸人はおらず、自分たちで出演交渉する必要がありました。

当時の上方演芸界は陰りが見えてきたとはいえ、まだまだ落語中心。寄席を大入りにするには人気の噺家を出演させるのが簡単でしたが、出演料がものすごく高い。

そこでせい夫妻が目をつけてのが「浪花落語反対派」。明治後期の上方落語界は桂派と三友派が対立していましたが、それとは別の第三勢力が存在していました。

「なんでもありの笑い」を武器に大頭していた勢力でその芸人たちは桂派や三友派の噺家たちに比べて出演料が安かったのです。

彼らは落語よりも色物「曲芸、剣舞、踊り、義太夫、軽口、女道楽」などの芸人が多く、第二文藝館もこれらの色物中心の興業となりました。

 

 

せい夫妻は当時、通常の寄席の木戸銭が15銭のところ、端席の第二文藝館は5銭としていました。

第二文藝館の収容人数は150人から200人と小規模。吉本夫婦はさまざまな工夫を施して客の回転や売上を増やしていきます。

例えばあえて換気をしないでそのままにして、客の入れ換えを促したり、雨宿り客が詰めかけた際には木戸銭を10銭に設定してふたり分の入場料を得るなどしていた。

また人件費を抑えるために、吉本せいが自ら木戸口に座って客の対応や寄席でのお茶子の仕事をするなど精力的に働きました。

楽屋では芸人たちの身の周りの世話をして汗まみれになった芸人の背中を手ぬぐいで拭いていたそうです。

こうした細やかな心配りが芸人たちを喜ばせて、彼らの心をがっちりと掴んだのも、成功の勝因の1つだったようです。

他にもあの手この手で寄席の収益を上げた吉本せい夫妻。その結果、不入り続きだった第二文藝館は大繁盛。その後、飛躍する礎になりました。

その後この成功をきっかけに吉本夫婦は現在の吉本興業の前身となる「吉本興業部」を大正2年(1913年)に設立することとなります。


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