2019年の新大河ドラマ「いだてん」がいよいよ1月6日から始まります!
今回は2役がなんと2人。中村勘九郎さん、阿部サダヲさんのW主演も話題になっています。
人気脚本家の宮藤官九郎さんが、日本が初参加した1912年のストックホルム五輪から1964年の東京五輪までの知られざる歴史を、ユーモアを交えて描く作品となっています。
今回は主役の1人阿部サダヲさん演じる田畑政治(たばたまさじ)について、実在する人物なのか??モデルはいるのか??そして、大河ドラマ「いだてん」で描かれるのは実話なのか??についてまとめていきます。
大河ドラマ「いだてん」のあらすじとは?田畑政治のモデルは実在??
物語の主人公は、1912年に、日本人で初めてオリンピック(ストックホルム五輪)に出場した日本マラソンの父・金栗四三(中村勘九郎)と1964年に東京オリンピック招致に尽力した日本水泳の父・田畑政治(阿部サダヲ)の2人。物語は明治から始まり1940年の幻の東京オリンピックを挟んで、戦後復興の象徴としての1964年の東京オリンピックへと向かっていく。
引用元:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190106-00010001-realsound-ent
東京オリンピックを控え、盛り上がるように、NHK以外の力も動き・・・設定された気もしますが^^;
素直にどっぷりはまってみるのも良いかもしれません!悪いことではないですよね~。
またクドカン脚本らしいな~と思うのが落語で物語をナビゲートするところ。
ビートたけしさん扮(ふん)する昭和の大名人・古今亭志ん生が“落語”で物語をナビゲートする。
『タイガー&ドラゴン』を思い出すんは私だけでしょうか?
ちなみに公式ではあくまで
およそ半世紀を描くオリジナルストーリー
と言っています。
オリジナルとは?大河には珍しい実在しないオリジナルキャラクターが主役!?と思ったのですが主役の2人や他の登場人物も実在するキャラクターばかりです。
だた、脚色されている部分も多いかもしれないので「オリジナルストーリー」としているのかもしれません。
もちろん、田畑政治さんも、モデルというか実在する人物です。
いだてんの田畑政治とは?
そんな阿部サダヲさん演じる田畑政治はどういう人物なのでしょうか?
まずは以下に簡単にご紹介です!
1964年の東京オリンピックを組織委員会事務総長として成功に導く。
もともとは水泳をこよなく愛し、世界と戦える選手の育成に燃えた指導者。
大学卒業後、新聞記者として政治家たちと渡りあいながらスポーツの地位向上をめざしていく。熱情家でロマンチストだが早とちりで落ち着きがないため、しばしばトラブルを巻き起こす。
引用元:https://www.nhk.or.jp/idaten/r/cast/002/
日本にオリンピックを誘致した男と言われている田畑政治。
その人生を以降で詳しくご紹介していきます!
水泳選手からコーチに転身し新聞記者へ!水泳への情熱がすごかった
田畑政治は1898年、明治31年に浜松市に生まれました。
浜松は水泳が盛んで、日本泳法(日本古来の泳法)で遠泳に励む若者たちは「浜名湾のかっぱ」とよばれていて、政治もその中の1人でした。
しかし、大病を患い、水泳を諦めることになります。
浜松一中で水泳選手からコーチに転じました。そして浜松一高から東京帝大政治学科を経て、1924年大正13年に東京朝日新聞社に入社。
1942年昭和17年には政治経済部長になり、1945年には編集局次長。また1947年には取締役東京代表→常務に。
順調に出世していた政治は1951年に東京朝日新聞社を退社しました。
そんな田畑政治さんは新聞社にいたときは、社業に励みつつも「どっちが本業なんだ??」と言われるほどの情熱を水泳に注いできました。
入社初年には、日本水泳連盟創設の中心的役割を果たし、水泳での「オリンピック第一主義」を主唱します。
そして1931年には全米チームを招いた日米水泳対抗を企画して、半数の競技でアメリカに勝利!!国民にスポーツ熱を起こさせるすごい大仕事を遂げたのでした。
また翌年のロサンゼルス五輪と1936年のベルリン五輪では水泳チーム総監督。
ってか、これ仕事に支障は!?って気になるすごい大役を担っていました。
そしてメダルラッシュで「水泳日本」を印象づけました。
しかし1940年の東京五輪は開催返、1944年のロンドン五輪も戦争で中止そして翌年日本は戦争に敗れると言う時代背景でした。
敗戦後に東京オリンピック開催を目指すも・・・
敗戦直後に田畑政治はその思いを以下のように語っていました。
「敗戦で自己喪失状態に陥ってしまった日本国民、特に青少年に対して、世界平和に通ずる新しい愛国心を投入するには、東京でオリンピックを開くに限ると思います。」
「終戦直後からひそかに地ならし工作を始めた私である」
しかし1948年のロンドン五輪には第二次世界大戦の敵国日本は参加することすら許されず、自国への招致どころではない状況でした。
1948年に日本水泳連盟の会長に就いた田畑はロンドン五輪の水泳日程に合わせて水泳の全日本選手権大会を実施します。
そして自由形の400メートルと1500メートルでロンドン五輪と当時の世界記録を塗り替えます。
日本は国際水泳連盟から除名されていて、公認を得ることができませんでしたが、国民は盛り上がり、大いに勇気づけれらることになります。
この時の選手がのちに「フジヤマのトビウオ」と呼ばれる古橋廣之進でした。田畑と同じ浜松出身の19歳でした。
そして翌年に日本は国際水連に見事復帰!
ロサンゼルスで開催された全米屋外水泳選手権大会に参加します。
ここでも古橋は橋爪四郎が次々に世界記録を打ち立てる活躍をします。
この時に選手団を自宅に泊めて世話をしたのがロス在住の日本人和田勇ことフレッド・イサム・ワダでした。
東京オリンピック招致も困難を極める!
日本が主権を回復したサンフランシスコ講和条約の発効からわずか3週間後の1952年5月に都議会は8年後の1960年五輪の招致を決議します!
同年7月にヘルシンキ五輪と1956年のメルボルン五輪では田畑は選手団団長を務めてメルボルンでは金を4つ、銀を10、銅を5つ獲得することになります。
しかし1960年の招致は失敗します。
そして都は1964年の五輪に再挑戦することに。
1957年5月に東京でIOC総会が開かれます。
先立つ1月、首相官邸で東京五輪準備委委員会世話人会がもたれ、作戦が練られます。
結果、来日したブランデージIOC会長をはじめ幹部委員への体育協会、JOC、政財官にNHK、ついには皇室まで加わった接待攻勢が展開されます。
これに前後して田畑個人も内外の要人説得工作に動きます。
ロスの和田勇には中南米委員の説得を依頼。
二百億円という開催費に及び腰の岸信介首相には「観光収入も見込めます!!」と直談判。
岸は在外公館に「関係者に会い、日本支援を考えてくれるのであれば何らかの援助措置を講ずる」と伝えるように指示します。
ってか・・・五輪招致ってこんなに大変だったんですね^^;
こうした努力が実り、1959年5月、ついに2位に大差をつけて東京での開催が決定します!!
田畑は組織委員会事務総長に就任。あらゆる重要な仕事に無報酬で奔走しました。
しかし、1962年にはアジア競技大会でトラブルが発生!責任を押し付けられる形で田畑は事務総長を解任されます。
要は美味しいところを横取りされたんです。
ヒドイ・・・大変な仕事を全部させた後に(>_<)
田畑は悲憤慷慨しながらも東京五輪を見て、「スポーツのみならず、科学、芸術も含めた日本文化の見本市にしたいと言う狙いは実現した」と言う言葉を残しています。
もちろん、最後にヒドイ目にあいましたが、事務総長を解任されたのにもかかわらず、今回このように大河ドラマで取り上げられ、五輪招致の一番の功労者として、誰もが認める人間は田畑政治であることがわかります。