首都公論のモデルは文芸雑誌「中央公論」!宇野千代と深いかかわり!

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朝ドラ「ブラッサム」第5週から登場する、日本屈指の文芸雑誌『首都公論(しゅとこうろん)』。
珠(石橋静河)が働く西洋レストラン「悠樂軒」に、その編集長と副編集長が通ってきます。

首都公論のモデルは、珠のモデル・宇野千代(うの・ちよ)さんが作家として世に出るきっかけになった文芸雑誌『中央公論』だと考えられます。

今回は、珠が悠樂軒で働くまでのネタバレと首都公論の紹介、そしてモデルの『中央公論』と宇野千代さんの深いかかわりについてご紹介します。

目次

首都公論(しゅとこうろん)とは?珠が働く西洋レストランで出会う人たちの文芸雑誌

珠が西洋レストランで働くことに!

ここからは、珠が東京で働きはじめるまでのネタバレです。

小学校の先生をしていた珠は、同じ学校の島村先生との恋が村のうわさになり、学校をクビになってしまいます。
その後、本家の葉野酒造で働きはじめますが、悪いうわさはいつまでも消えず、そこもやめることに。
珠は、ふるさとの岩国にいられなくなってしまったのです。

そんなとき、いとこの木村保(金子大地)から、東京の帝大に進むという知らせが届きます。
「お金より、心が心配じゃ」。
継母のリョウにも背中をおされ、珠は東京へ出て、保とくらすことを決めました。

2人が住むことになったのは、本郷の下宿「三好」。
他人の男女はいっしょに住めない決まりだったため、珠は保の“妹”ということにして、くらしはじめます。
のちに、大家さんに兄妹ではないことを打ち明け、なんとか同居をゆるしてもらいました。

ところが、保の父が入院して、実家からの仕送りがストップ。
保は新聞配達をしながら大学に通い、珠も仕事を探しますが、なかなか見つかりません。

そんな中、珠が新聞のすみに見つけたのが、西洋レストラン「悠樂軒」のウエイトレスの求人でした。
こうして珠は、悠樂軒で働くことになります。

保とのその後の歩みは、こちらにまとめました。
ブラッサム木村保(たもつ)のモデルは藤村忠!元夫の弟で驚きの結婚!?

首都公論とは?珠が働く西洋レストランで出会う人たちの文芸雑誌

悠樂軒のお客さんの中にいたのが、文芸雑誌『首都公論』の編集長と副編集長です。

保は新聞配達をしながら大学に通い、珠は西洋レストラン「悠樂軒」でウエイトレスとして働くことになる。そのレストランの客の中には、一流の文芸雑誌「首都公論」の敏腕編集長・黒崎大三郎(遠藤憲一)と副編集長・山中勇三(井浦新)がいた。黒崎は一流の編集長らしく、豪快にビフテキを食べ、帰る際には必ず大金のチップを置いていった。そんな中、珠は家事と仕事の合間に小説を書き続けていたが…。

引用元:番組表.Gガイド

公式サイトでは、首都公論は「日本屈指の文芸雑誌」で、「一流の作家を数多く抱える」雑誌と紹介されています。
つまり、作家にとっては、作品を載せてもらえたら一人前と認められるような、あこがれの雑誌なんですね。

首都公論で働く人として紹介されているのは、次の3人です。

  • 編集長の黒崎大三郎(遠藤憲一):豪快な性格と、作品を見ぬく鋭い目で、文学の世界を引っぱっていく人物
  • 副編集長の山中勇三(井浦新):黒崎の右腕。いつも冷静に判断して、首都公論をささえる腕ききの編集者
  • 編集部員の横田(大窪人衛):黒崎と山中の部下

黒崎たちが悠樂軒に来ると、自分の作品を載せてもらいたい作家たちが、次々と集まってきます。
ビフテキをぺろりと平らげ、帰りにはかならず多めのチップを置いていく黒崎は、まさに文壇の大物です。

家事と仕事のあいまに小説を書きつづけている珠にとって、首都公論は、作家への夢につながる大切な存在になっていきます。

黒崎を演じる遠藤憲一さんも、ご自身のXで「ブラッサム」を紹介していました。

店長やウエイトレスを演じる俳優さんは、こちらでチェックできます。
ブラッサム レストラン キャスト!ウエイトレス役の芸人や店長役など

首都公論のモデルは「中央公論」!宇野千代が働くレストランでの出会いに関係!

燕楽軒の向かいにあったのが中央公論社

史実でも、上京してまもない宇野千代さんは、本郷三丁目の洋食店「燕楽軒(えんらくけん)」で料理を運ぶ仕事についていました。
ドラマの悠樂軒のモデルになったお店です。

この燕楽軒のお向かいにあったのが、雑誌『中央公論』を出していた中央公論社でした。

ドラマの首都公論の編集長が悠樂軒に通ってくるのは、この位置関係がもとになっていそうですね。
名前も「〇〇公論」とそっくりです。

公式には首都公論のモデルは発表されていませんが、このあと紹介する史実と、ドラマの流れがぴったり重なります。

燕楽軒がどんなお店だったのかは、こちらでご紹介しています!
悠樂軒(ゆうらくけん)モデルは燕楽軒!西洋料理店は宇野千代が働いていた?

常連の「金時さん」は中央公論の名物編集長だった

燕楽軒には、「金時さん」とよばれる、まるまると太った常連客がいました。
金時さんは、いつも宇野千代さんが受け持つ席にすわり、すごい速さで食事をすませると、ビールを1杯ぐいっと飲みほします。
そして帰りぎわには、食事代とは別に50銭の銀貨を置いていきました。

当時の50銭は、今の5千円ほど。
びっくりするほど気前のいいチップです。

じつはこの人、通りの向こうの中央公論社で、雑誌『中央公論』をまとめるトップ、瀧田樗陰(たきた・ちょいん)だったのです。

豪快にビフテキを食べて、毎回たっぷりチップをはずむ黒崎の姿は、まさにこの瀧田樗陰と重なりますね。

瀧田樗陰が作家たちを連れてきた

瀧田樗陰は、東京帝国大学の学生だったころ、『中央公論』で海外の記事を訳すアルバイトをしていて、そのまま編集の仕事をするようになった人です。
文芸のページを充実させて、雑誌の売り上げを一気にのばし、たくさんの才能ある作家を見つけだしました。

あの芥川龍之介や菊池寛も、まだ新人だったころに、瀧田樗陰が『中央公論』に作品を載せています。

そんな瀧田樗陰が、作家たちを連れて燕楽軒にやってきたことで、宇野千代さんは多くの作家と知り合います。
作家たちの間で「きれいな給仕の娘がいる」と、たちまちうわさになったといいます。

燕楽軒で働いた日数は、わずか18日。
けれど、この短い間の出会いが、のちの作家人生を大きく動かしました。

1960年(昭和35年)に出た雑誌には、瀧田樗陰が「えんらく軒という西洋料理店に勤めている藤村千代という女性が小説を書けるらしいので、何か書かせてみようと思っている」と話していた、という室生犀星の記事も載っているそうです。
(藤村千代は、当時の宇野千代さんの名前です)

瀧田樗陰は、宇野千代さんが燕楽軒にいたころから、新しいタイプの女性作家として目をつけていたのかもしれませんね。

燕楽軒で宇野千代さんが出会った作家たちについては、こちらの記事でもご紹介しています。
宇野千代と芥川龍之介の接点や関係は燕楽軒?

「中央公論」とはどんな雑誌?

ここで、モデルになった『中央公論』について、調べてわかったことをご紹介します。

  • はじまりは1887年(明治20年)。京都の西本願寺系の学校の学生たちがつくった『反省会雑誌』という、お酒をやめることなどを呼びかける雑誌だった
  • 1899年(明治32年)に『中央公論』と名前を変え、だんだん小説や評論を載せる雑誌になっていく
  • 大正時代には、政治の評論や自由な考えの論文を多く載せ、「大正デモクラシー」の時代をリードした
  • 小説のページは、新人作家が世に出るための「登竜門」といわれていた
  • 1916年(大正5年)には、女性向けの雑誌『婦人公論』も創刊

大正時代のなかごろには、『中央公論』に作品が載ること自体が、人気作家の仲間入りと見られるほどになっていました。

ドラマで首都公論が「日本屈指の文芸雑誌」として描かれているのも、うなずけますね。

ちなみに『中央公論』は、今も発行が続いている月刊誌です。
1999年からは、読売新聞グループの「中央公論新社」が出しています。
130年以上つづく、とても歴史のある雑誌なんです。

宇野千代が中央公論で本格作家スタート!?

懸賞小説で一等になった『脂粉の顔』

燕楽軒をやめたあと、宇野千代さんは、のちに夫となる藤村忠(ドラマの保のモデル)と北海道・札幌でくらしはじめます。

1921年(大正10年)、新聞『時事新報』の懸賞小説に応募した『脂粉の顔(しふんのかお)』が、なんと一等に選ばれました。
賞金は200円。
ちなみに二等は、のちに宇野千代さんの3番目の夫になる作家・尾崎士郎でした。

宇野千代さんの作家デビュー作とされているのが、この『脂粉の顔』です。

瀧田樗陰に送った『墓を発く』

「瀧田樗陰に原稿を送れば、きっと『中央公論』に載せてもらえる」。
宇野千代さんはそう信じて、次の作品を書きはじめました。

書き上がったのは、1922年(大正11年)の2月の終わり。
題名は『墓を発く(はかをあばく)』です。
宇野千代さん自身は、懸賞小説よりもいい作品が書けたと思っていたそうです。

すぐに原稿を中央公論の編集部に送りましたが、待っても待っても返事はきません。
「原稿が届いていないのかもしれない」「採用されなかったから連絡がないのかも」。
4月10日まで待った宇野千代さんは、直接たしかめようと、東京へ向かうことにしました。

すでに載っていた!原稿料は366円

1922年(大正11年)4月12日、上野駅に着いた宇野千代さんは、まっすぐ中央公論の編集部へ。
燕楽軒のすぐ近くです。

3階の編集部まで階段をかけあがり、息を切らしながら瀧田樗陰に「原稿は届いていますか」とたずねました。
すると瀧田樗陰は、積んであった雑誌を1冊取って、こう言ったそうです。

「ここに出ていますよ。原稿料も持って行きますか」

『墓を発く』は、すでに『中央公論』の5月号に載っていたのです。

そして、目の前に出された原稿料は、なんと366円。
今のお金にすると、およそ250万円ほどにもなる大金でした。

宇野千代さんは、お礼を言うのも忘れて外に飛びだし、昔お世話になった質屋さんにかけこんで、366円を見せたといいます。
そのあと、ふるさとの岩国に帰り、母や弟妹たちにこのお金を見せて分けました。

原稿料をもらって「本格作家スタート」

厳密にいうと、宇野千代さんのデビュー作は『脂粉の顔』です。
ただ、『脂粉の顔』でもらったのは懸賞の「賞金」でした。

雑誌に作品が載り、出版社から「原稿料」を受け取ったのは、この『墓を発く』が最初だったと考えられます。

しかも載ったのは、作品が載れば人気作家の仲間入りといわれた『中央公論』。
『墓を発く』は、宇野千代さんが本格的に作家として歩きだした作品といえそうです。

その後、岩国から札幌へ帰るとちゅう、宇野千代さんはお礼をかねて、もう一度中央公論社に立ち寄ります。
そこで瀧田樗陰から紹介されたのが、尾崎士郎でした。
宇野千代さんは尾崎士郎にひとめぼれし、そのまま東京で書きつづける道を選びます。

次に書いた『巷の雑音』も『中央公論』に載り、前よりもさらに多い原稿料を受け取ったそうです。

ドラマでも、珠の『墓を発く』は首都公論に載ることになります。
珠が東京に残って書きつづけるまでの流れは、こちらの記事でご紹介しています。
宇野千代 2番目の夫は誰?藤村忠との史実まとめ

その後の宇野千代と中央公論のかかわり

宇野千代さんと中央公論のつながりは、デビューのころだけではありません。
調べてみると、代表作の多くが中央公論から世に出ていました。

  • 1930年(昭和5年):『罌粟(けし)はなぜ紅い』を中央公論社から出版
  • 1933年(昭和8年)〜1935年(昭和10年):画家・東郷青児から聞いた話をもとにした『色ざんげ』を『中央公論』で連載。中央公論社から本になり、作家としての名声が高まる
  • 1942年(昭和17年):『人形師天狗屋久吉』を『中央公論』に発表
  • 1950年(昭和25年)〜1957年(昭和32年):代表作『おはん』を『中央公論』で連載
  • 1957年(昭和32年):『おはん』を中央公論社から出版し、野間文芸賞と女流文学者賞を受賞
  • 1977年(昭和52年)〜1978年(昭和53年):『宇野千代全集』全12巻を中央公論社から刊行

宇野千代さん自身がいちばんよくできた作品と語った『おはん』も、『中央公論』での連載で完成しました。

ほかにも、晩年のエッセイの多くが中央公論社から出版され、今も中公文庫などで読むことができます。
『墓を発く』から始まった中央公論とのご縁は、宇野千代さんの一生を通して続いていたんですね。

まとめ

朝ドラ「ブラッサム」に登場する文芸雑誌『首都公論』のモデルは、宇野千代さんが作家として世に出た雑誌『中央公論』だと考えられます。

  • 珠は、ふるさとにいられなくなって上京し、保とくらしながら西洋レストラン「悠樂軒」で働きはじめる
  • 悠樂軒には、首都公論の編集長・黒崎と副編集長・山中が通ってくる
  • 史実では、宇野千代さんが働いた燕楽軒の向かいに中央公論社があり、編集長の瀧田樗陰が常連客だった
  • 宇野千代さんの『墓を発く』は『中央公論』に載り、366円という大金の原稿料を受け取った
  • その後も『色ざんげ』『おはん』など、代表作の多くが中央公論から世に出た

黒崎と珠の出会いが、これからどんなふうに珠の作家人生を動かしていくのか、楽しみですね!

悠樂軒で珠が出会う人気作家・秋山のモデルについては、こちらで紹介しています。
秋山格之介のモデルは芥川龍之介【朝ドラ ブラッサム】

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