笠置シヅ子の戦争の実話!戦時中から戦後までの地獄とは?

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NHK連続テレビ小説・朝ドラ「ブギウギ」は戦争時代に入りました。歌劇団のショーの内容が変わったり、弟の六郎に赤紙が来てしまったヒロインの福来スズ子のモデル・笠置シヅ子さんが後に「地獄だった」と語った戦時中から戦後まで戦争の実話をご紹介します。

目次

笠置シヅ子の戦争時代が地獄だった実話まとめ

笠置シヅ子の母親の死因や病気とは?亀井ウメの生涯

ブギの女王と呼ばれた笠置シヅ子(かさぎしづこ)さんをモデルにした、NHK連続テレビ小説「ブギウギ(ぶぎうぎ)」!

「ブギウギ」では、梅丸楽劇団もショーの内容が変更されたり、弟の六郎(黒崎煌代)にも赤紙が来たりと、いよいよ戦争の色が濃くなってきました。

これから朝ドラ「ブギウギ」が戦争時代に入っていくのを踏まえ、笠置シヅ子さんの戦争と戦後までの、実話についてご紹介させていただきます!

後に笠置シヅ子さんが「地獄だった」と語っていた戦争時代とは??

戦争によって運命を翻弄された笠置シヅ子さん。歌うことや恋愛、「東京ブギウギ」誕生秘話など、様々な波乱万丈がありました!

戦前の生い立ちから歌劇団や服部良一との出会い!

笠置シヅ子さんは1914年香川県で生まれました。

実の母親は結婚を許されなかったため、近所で出産のため帰省していた、亀井うめさんが引き取り、大阪で育てることになりました。

銭湯を経営していた両親と、弟の八郎と4人家族で、笠置シヅ子さんは愛情たっぷりに育てられます。

芸事が好きな両親だったため、小さいころから日本舞踊などを習っていて、歌も上手だったためよく銭湯の脱衣場で歌っていて、近所でも評判の女の子。

13歳で松竹楽劇部に入り、少女歌劇の道を進みます。

18歳のときに、偶然実の母親と再会しますが、母親は自分のことを母親だとは名乗らず、笠置シヅ子さんもこのことは育ての両親に告げませんでした。

笠置シヅ子さんが24歳のころの1938年、東京に新しくできた「松竹楽劇団」にスカウトされ、大阪を離れ上京。

そこで服部良一さんと、運命の出会いをします!

服部良一さんは笠置シヅ子さんの才能を見抜き、徹底的にジャズを体にしみこませました。

こうしてブギの女王として、大スターになった笠置シヅ子さん。

ですが弟、六郎さんの戦死と、養母のうめさんの病死。笠置シヅ子さんを不幸が襲います。

敵性音楽でジャズが禁止に!

そしてブギの女王にも終焉が訪れます。戦争が始まり、敵性音楽であるジャズが禁止となってしまうのです。

笠置シヅ子さんや淡谷のり子さんの、ステージ用の派手な衣装や化粧にもクレームをつけられ、反抗する笠置シヅ子さんたちは、軍から目をつけられてしまいます。

つけまつ毛がダメだと言われ、笠置シヅ子さんは泣きそうになったといいます。

さらに陽気な歌やオーバーな表現なども規制の対象となり、直立不動で歌うことを強制されました。

笠置シヅ子さんは、このときのことを惨めだったと語っておられます。

笠置シヅ子とその楽団が結成される!

1941年、ついに松竹楽劇団が解散となります。上演内容の規制も厳しくなり、男役スターたちなどが相次いで退団したのです。

笠置シヅ子さんは服部良一さんの援助の元、「笠置シヅ子とその楽団」を立ち上げ独立しました。

ですが軍から目をつけられていた笠置シヅ子さん。軍隊慰問興行には声をかけてもらえず、軍需工場の慰問や、映画館での実演公演などをしていました。

ジャズ系の歌は禁止されたため、服部良一さんが東南アジアを想定してつくった「アイレ可愛や」などを歌っていたそうです。

「アイレ可愛や」は笠置シヅ子さんの興行のため、いろいろと手を尽くして作った楽曲でした。

ですが資金繰りに追われるようになり、1944年にマネージャーが勝手に楽団を売却。

「笠置シヅ子とその楽団」は解散を余儀なくされます。

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運命の人との出会い

「笠置シヅ子とその楽団」解散の前の年、笠置シヅ子さんはもうひとりの運命の人と出会います!

それが吉本興業の御曹司、吉本穎右(よしもとえいすけ)さんです!

吉本穎右さん吉本興業を創業した、吉本せいさんにとって、たった一人生き残った跡取り息子。

笠置シヅ子さんのファンだった吉本穎右さんとは、知人を通じて知り合いました。

実はその前に2度も対面していたおふたり。そのときの印象を笠置シヅ子さんは、このように語っておられます。

背広をシックに着こなした長身の青年で、ジェームス・スチュアートのように端麗な近代感に溢れていた

なんという誉め言葉(≧∇≦)たしかに吉本穎右さんはかなりのイケメンです♪

ちなみに「裏窓」などで主役を演じたジェームス・スチュアートがこちら。

内面的にも優れていた吉本穎右さんは、周囲からも「ぼん」と呼ばれ、慕われていたそうです。

恋人へ

同じ列車で移動することになり、笠置シヅ子さんは好意を抱きました。

ですが笠置シヅ子さんの方が9歳年上だったことや、身分の違いもあり、弟のように接していた笠置シヅ子さん。

しかもこのとき吉本穎右さんはまだ学生でした。

東京でお互いの家を行き来するようになり、惹かれあっていくふたり。やがて付き合うようになります。

このときの気持ちを、笠置シヅ子さんはこのように語っておられます。

「わたしが一生のうちに、こんなに人の愛情に甘えたのは、この時期以外にないでしょう」

強い愛情で結ばれていたんですね(≧∇≦)

このころ楽団も解散し、服部良一さんも上海に行っていたため、笠置シヅ子さんは吉本興業のマネージメントで興行をしていたそうです。

同棲

空襲が激化し、笠置シヅ子さんの家も、吉本穎右の邸宅も焼失してしまいます。

そのためふたりは一緒に暮らし始めます。とはいっても、ほかの人も同じ屋根の下で暮らしていましたが。

懸命に笠置シヅ子さんのサポートをする吉本穎右さん。間もなく終戦となりました。

吉本穎右帰阪

1945年8月に終戦となり、3か月後の11月に日本劇場が再開。このときの最初のショーに、笠置シヅ子さんは出演されています。

1946年には服部良一さんとも再会しましたが、吉本穎右さんは早稲田大学を中退し、笠置シヅ子さんと結婚するため吉本に入社。

このため半年間の同棲は解消されていますが、吉本穎右さんは笠置シヅ子さんに早く舞台をやめてほしいと言っていたそうです。

一方吉本穎右さんの家では、元々体が弱かった吉本穎右さんには、大阪に戻ってほしいと思っていました。

このころ母親のせいさんも、体調を崩していたようです。

笠置シヅ子さんも大阪に戻るよう説得し、ようやく6月に帰阪することになります。

このとき琵琶湖で一緒に見た、夕暮れの湖畔の景色は、笠置シヅ子さんにとって忘れられないものとなりました。

妊娠

10月になり、笠置シヅ子さんの妊娠がわかりました。

結婚が許されなければ、家を出ると言っていた吉本穎右さん。

妊娠がわかると対立を避けるため、子どもを認知したうえで、時間をかけても入籍を認めてもらおうと思っていたそうです。

身重の体でも、医師に楽屋に待機してもらい、舞台を続けた笠置シヅ子さん。

臨月を迎えますが、そのころ吉本穎右さんは結核を患い、東京に戻れないほど弱っていました(>_<)

吉本穎右急逝

吉本興業の社員から、容態が悪化していると手紙が届くようになりましたが、出産日が近づいていたため、大阪には行けません。

5月18日に「今が生死の関頭だろう」という手紙が届き、翌19日に吉本穎右さんは24歳という若さで急逝。

入院していた笠置シヅ子さんのもとに、吉本の社員から吉本穎右さんの預金通帳が渡されました。

3万円という預金額で、吉本穎右さんが我が子のために残したもの。

吉本穎右さんの死から娘の出産まで、わずか10日でした。

吉本穎右さんの遺言により、娘は「エイ子」と名付けられました。

9月に笠置シヅ子さんは、娘を連れてせいさんの自宅を訪ねます。

せいさんはふたりを丁寧に迎い入れ、これから大変であろう笠置シヅ子さんをねぎらい、エイ子を預かってもいい、と申し出ます。

ですが自分も養女として育ったこともあり、この申し出を断りました。

のちに笠置シヅ子さんは、乳飲み子を抱えて舞台に立つことから、生活のために売春をする夜の女性たちから支持されるようになります。

笠置シヅ子の戦後の東京ブギウギ誕生秘話とは?

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芸能界復帰

ひとりで娘を育てていかなければならくなった笠置シヅ子さん。哀しみのどん底にいましたが、服部良一さんなど多くの関係者たちが、支えてくれました。

お七夜には大勢が駆け付け、盛大にお祝いをしてくれました。

娘を育てるためにも、笠置シヅ子さんは芸能界に復帰する決意をします。

笠置シヅ子さんは服部良一さんにこう頼みました。

芸能界に復帰するのに、ふさわしい歌をつくってほしい。

先生、たのんまっせ

服部良一の決意

最愛のひとを失くし、悲嘆にくれる笠置シヅ子さんのため、服部良一さんは華やかな再起の場を作ることを決意。

それは敗戦に沈む日本人へのエールにもなると考えます。

「センチメンタル・ダイナ」を作詞した野川香文さんと再会し、明るいリズムでいくべき、ということでブギウギに決定。

電車の揺れから新しいルズムを思いつき、気鋭の若手、鈴木勝さんに作詞を依頼。修正を加えて出来上がったのが「東京ブギウギ」でした!

レコーディング

「東京ブギウギ」のレコーディングは、進駐軍の多いビルで行われ、見学に多くのアメリカ兵が押しかけました(;^^)

服部良一さんはライブ感が出ると思い、そのまま続行。

笠置シヅ子さんの歌に魅了されたアメリカ兵たちは、演奏が終わると歓声を上げました。

服部良一さんはみんなとビールを飲みながら、「東京ブギウギ」の成功を確信します。

大ヒット

「東京ブギウギ」はラジオでも何度も流され、レコードがリリースされると、爆発的なヒットに!

明るい楽曲と、笠置シヅ子さんのパンチの効いた歌声は、沈んだ日本人の心を明るくさせました。

服部良一さんから「ブギは体を揺らせて、ジグザグに動いて踊りながら歌う」と教えられた笠置シヅ子さん。

服部良一さんに言わせると「不思議な踊り」を生み出した笠置シヅ子さんは、パワフルに歌い上げます。

疲弊しきっていた日本人。「東京ブギウギ」でブギのリズムに乗り、気持ちが明るくなりました。

そしてステージいっぱいを使って踊り、パワフルに歌う笠置シヅ子さんに、多くのパワーを貰ったことと思います。

戦前にブギの女王だった笠置シヅ子さん。こうして戦後もブギの女王として復活を遂げたのでした。

まとめ

福来スズ子の実在モデルは本人ではなく笠置シヅ子!夫との壮絶な結末も

朝ドラ「ブギウギ」ヒロインスズ子(趣里)のモデルであり、ブギの女王と呼ばれた笠置シヅ子さん。

服部良一さんとの出会いにより、ジャズ歌手としての才能を開花させましたが、すぐに戦争によりジャズが歌えなくなってしまいます。

所属していた松竹楽劇団も解散となり、「笠置シヅ子とその楽団」を立ち上げますが、こちらも解散となります。

そんなとき、吉本興業の御曹司、吉本穎右さんと出会い恋に落ちます。

笠置シヅ子さんの妊娠で、結婚する予定でしたが、吉本穎右さんは大阪で病死。

その10日後に娘が誕生しました。

悲しみに暮れる笠置シヅ子さんでしたが、服部良一さんなど多くの関係者が支えます。

娘を食べさせるため、またステージに上がる決意をした笠置シヅ子さん。

復帰のための曲を服部良一さんに託しました。

こうして出来上がったのが「東京ブギウギ」♪

明るくパワフルなこの楽曲は、敗戦で疲弊した日本人を明るくさせました。

笠置シヅ子さんに限らず、日本人全員が戦争により翻弄され、苦しい時代を過ごしたことと思います。

朝ドラ「ブギウギ」ではこの戦中戦後、どのように描かれるのでしょうか。

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