朝ドラ「ブラッサム」で、ついに珠(石橋静河)の妊娠がわかりました。
珠のモデルになったのは、作家の宇野千代(うの・ちよ)さん。
「宇野千代さんには子供がいたの?」「何人?」と気になった方も多いのではないでしょうか。
今回は宇野千代さんの妊娠・死産の史実、子供にまつわるエピソードについてご紹介します。
宇野千代の子供はいる?何人?
ブラッサムで珠が妊娠!
2026年10月30日(金)に放送された第25回で、珠に大きな出来事がありました。
悠樂軒で知り合った作家志望の青年・左良太(北野秀気)と、「おたがい小説を書こう」と手を取り合っていた珠。
そこへ迎えに来た保(金子大地)は、2人の姿を見て、思わず怒りをあらわにします。
その勢いのまま、保はずっと胸にしまってきた気持ちを珠に打ち明けました。
恋人になれば、いつか終わりが来てしまう。
そう不安を口にする珠に、保は「わしは珠さんを裏切らん」と約束します。
こうして珠と保は、ようやく恋人同士になりました。
「ウチ、保さんが好きじゃ」——。
関係が壊れることを恐れて、想いに蓋をしてきた珠。
保さんのひたむきな誓いの言葉が、縛られていた心の枷を解き、ようやく二人は結ばれました🌸
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ところが、それから数か月後。
珠は、ひどい眠気と吐き気に悩まされるようになります。
お医者さんを呼ぶと、告げられたのは「おめでとうございます」のひと言。
恋人になってわずか数か月で、珠のおなかに新しい命が宿っていたのです。
保はまだ帝大の学生なので、ただただおどろくばかり。
一方の珠は「お母か……なりたい」と、すぐに赤ちゃんを受け入れ、2人で親になろうと決めました。
放送のあとは、SNSでも「展開が早すぎる!」とおどろく声や、「珠おめでとう!」とお祝いする声がたくさん上がっていました。
次の第6週のタイトルは「ふたり、北へ」です。
朝ドラ #ブラッサム 次週予告🌸
『第6週』11/2(月)〜11/6(金)放送
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保のモデルになった人物については、こちらで紹介しています。
ブラッサム木村保(たもつ)のモデルは藤村忠!元夫の弟で驚きの結婚!?
宇野千代の子供はいる?何人?
珠のモデルは、作家の宇野千代さんです。
宇野千代さんは、1897年(明治30年)に山口県の岩国で生まれました。
『色ざんげ』『おはん』などの小説で知られ、着物のデザインや、日本で初めてのファッション雑誌『スタイル』づくりでも活躍した人です。
80代で出した『生きて行く私』は大ベストセラーになり、1990年には文化功労者に選ばれています。
そして1996年(平成8年)、98歳で亡くなるまで、恋も仕事も自分の気持ちに正直に生きました。
そんな宇野千代さんは、生涯で4回結婚し、4回離婚しています。
画家の東郷青児とも、いっしょに暮らしていた時期がありました。
これだけ恋愛や結婚をくり返していますが、宇野千代さんには、実の子供は1人もいません。
養子をむかえたという記録も見当たりません。
「子供は何人?」の答えは「0人」ですが、子供とまったく縁がなかったわけではありません。
ここからは、宇野千代さんの妊娠や死産について、調べてわかった史実をくわしくご紹介します。
宇野千代の妊娠、死産など史実
2番目の夫・藤村忠と札幌で暮らした
宇野千代さんが妊娠をくり返したのは、2番目の夫・藤村忠(ふじむら・ただし)さんと暮らしていたころです。
藤村忠さんは、10代で嫁いですぐに家を出てしまった、最初の夫の弟にあたる人です。
2人は1919年(大正8年)に結婚し、翌年、忠さんが北海道拓殖銀行に勤めることになったため、札幌に引っこしました。
札幌での宇野千代さんは、家事も近所づきあいもしっかりこなし、着物を縫う腕も身につけた奥さんだったそうです。
そのかたわらで小説を書き、1921年(大正10年)には『脂粉の顔』が新聞の懸賞小説で1等に選ばれました。
藤村忠さんとの結婚生活は、こちらでくわしくまとめています。
宇野千代 2番目の夫は誰?藤村忠との史実まとめ
何度も赤ちゃんを亡くしていた
札幌では宇野千代さんは「度重なる死産」を経験していたとのことです。
宇野千代さんは、後に作家の瀬戸内寂聴さんとの対談で、このころのことを話しています。
対談は1983年の雑誌『婦人公論』にのったもので、瀬戸内寂聴さんの本『わたしの宇野千代』(中公文庫)にも入っています。
その対談で宇野千代さんは、藤村忠さんとのあいだの子を、6人も亡くしていると語ったと紹介されています。
さらに、自分は骨盤が小さいため、おなかの中で赤ちゃんが大きく育たず、7か月ごろまでに生まれてしまう、という意味のことも話していたそうです。
おなかの赤ちゃんを何度も失うのは、どれほどつらかったことでしょう。
5回の妊娠とする資料も
亡くした子の数は、資料によって少しちがいます。
- 本人が対談で語った数 → 6人
- 宇野千代さんの札幌時代を紹介した記事 → 5回妊娠し、4回は流産、1回は生まれたもののその日に亡くなった
どちらにしても、藤村忠さんと暮らした数年のあいだに、何度も妊娠し、何度も赤ちゃんを亡くしたことはまちがいなさそうです。
なお、宇野千代さん自身は、赤ちゃん1人1人のことを、くわしく書きのこしてはいません。
いつ、何か月で亡くなったのかといった細かいことは、はっきりわかっていないんです。
自伝『生きて行く私』にも書かなかった
宇野千代さんの人生がつまった自伝的な作品が『生きて行く私』です。
恋のことも、お金のことも、包みかくさず書いた本として知られています。
ところが、この本の中でも、くり返した流産や死産のことは、ほとんど書かれていないといわれています。
あれだけ自分のことを正直に書いた宇野千代さんでも、赤ちゃんを亡くした悲しみだけは、文章にするのがつらかったのかもしれませんね。
尾崎士郎と暮らしはじめたころにも妊娠
宇野千代さんは、札幌から東京に出てきたあと、作家の尾崎士郎(おざき・しろう)と恋に落ち、いっしょに暮らしはじめます。
1924年(大正13年)に藤村忠さんとの離婚が成立し、その後、尾崎士郎と結婚しました。
宇野千代さんの年表では、このころにも妊娠したと書かれています。
ただ、その赤ちゃんがどうなったのかは、はっきりした記録がありません。
結局、宇野千代さんが母親になることはありませんでした。
小説「私と子供」
宇野千代さんには、「私と子供」という題の短い小説があります。
『宇野千代全集』にも入っている作品です。
この小説は、主人公の「私」が女の子を産み、生まれてまもなく亡くしてしまうお話だと紹介されています。
小説なので、書かれていることがそのまま本当にあったこととはかぎりません。
それでも、自伝では語らなかった赤ちゃんへの思いを、小説の形でそっと書きのこしたのかもしれません。
以降では、ドラマのこの先の展開をネタバレでご紹介します。
放送まで知りたくない方は、見ないように注意してください!
ブラッサムで珠の妊娠・子供はどうなる?【閲覧注意】
ここからは、ドラマのこの先の展開をネタバレでご紹介します。
放送まで知りたくない方は、ご注意くださいね。
第6週 赤ちゃんを七か月で亡くす
1918年(大正7年)5月、珠のおなかの赤ちゃんは3か月になっていました。
帝大生の保は、結婚もしないまま中途半端な形で子供を産ませることになったと、珠にあやまります。
そんな2人に、照子のいとこ・正吾が、札幌で暮らさないかと声をかけてくれます。
こうして、珠と保は結婚して北海道へうつることを決めました。
ところが秋、おなかの赤ちゃんが7か月をすぎたころ、珠は急に激しいおなかの痛みにおそわれます。
2人の赤ちゃんは、7か月の早産で生まれ、静かに亡くなってしまいました。
床にふせったまま、「あの子はどこへ行ったんじゃろうね」と涙を流す珠。
保は泣きながら、珠をそっと抱きしめます。
史実と同じように、ドラマの珠も、赤ちゃんを亡くす悲しみを経験することになります。
そのあと保は、北海道へ行くことを急いで決めました。
1919年(大正8年)3月、珠と保は札幌での新しいくらしを始めます。
第7週 医者から告げられたこと
札幌で、近所の人たちの着物の仕立てを引き受けるようになった珠は、やがて、また子供がほしいと思うようになります。
ところが、念のためにと勧められた産院で、お医者さんから思いもよらないことを告げられるのです。
元気な赤ちゃんを産むことは、むずかしい体だということでした。
保は「つらかったのう」と、珠に寄りそいます。
史実の宇野千代さんが語った「赤ちゃんが育たない体」という話が、ドラマでも描かれることになりそうですね。
このあと珠は、新聞の新人小説の募集を見つけ、ふたたび書くことに向かっていきます。
珠の作品がのる雑誌『首都公論』のモデルについては、こちらで紹介しています。
首都公論のモデルは文芸雑誌「中央公論」!宇野千代と深いかかわり!
史実とくらべると?
ドラマと史実をくらべると、時期や回数が少しちがっています。
- 史実:藤村忠さんとの結婚は1919年。赤ちゃんを亡くしたのは、主に札幌でくらしていたころ
- ドラマ:結婚前の1918年に妊娠がわかり、札幌へうつる前に赤ちゃんを亡くす
- 史実:亡くした子は5〜6人と伝えられている
- ドラマ:第6週で亡くすのは1人。そのあと、子供ができにくい体だと告げられる
ドラマでは、何度もくり返した悲しい経験を、1つの出来事にまとめて描いているようです。
子供にまつわる宇野千代のエピソード
自分も幼いころに母親を亡くしていた
宇野千代さんは、1歳半のときに実のお母さんを病気で亡くしています。
翌年、お父さんが再婚し、宇野千代さんは継母のリュウさんに育てられました。
お父さんは仕事につかず、競馬やばくちなど遊びにお金を使ってしまう人で、家のくらしは苦しかったそうです。
それでも宇野千代さんは、継母のリュウさんを本当のお母さんだと思って育ち、一生したいつづけました。
代表作『おはん』の主人公・おはんは、このリュウさんがモデルだといわれています。
血のつながりがなくても、親子のような強いきずなは生まれる。宇野千代さんは、それを身をもって知っていた人なのかもしれません。
東郷青児の息子といっしょに暮らした
1930年(昭和5年)ごろから、宇野千代さんは画家の東郷青児と暮らしはじめます。
東京・世田谷にアトリエ付きの白い洋館を建て、そこで東郷青児と前の奥さんとのあいだの息子・志馬(しま)くんとも、いっしょに暮らしていました。
実の子供はいなくても、宇野千代さんは、母親のような立場で子供と暮らしたことがあったんですね。
4回の結婚と、その相手
宇野千代さんが結婚した相手と、いっしょに暮らした人をまとめると、次のとおりです。
- 1911年(明治44年)藤村亮一 → 約10日で実家にもどる
- 1919年(大正8年)藤村忠 → 1924年に離婚
- 1926年(大正15年)作家・尾崎士郎 → 1930年に離婚
- 1930年(昭和5年)ごろ 画家・東郷青児と暮らす → 1934年に別れる
- 1939年(昭和14年)作家・北原武夫 → 1964年に離婚
どの相手とのあいだにも、育った子供はいませんでした。
宇野千代さんの若いころの恋については、こちらもあわせてどうぞ。
ブラッサム島村先生のモデルは誰?宇野千代との衝撃の顛末
98歳まで書きつづけた
子供はいなかった宇野千代さんですが、その分、たくさんの作品をのこしました。
90代になっても新しい本を出しつづけ、亡くなる前の年には『私何だか死なないような気がするんですよ』という題の本も出しています。
悲しい出来事があっても前を向いて生きた宇野千代さんの姿は、ドラマの珠にも重なりますね。
https://twitter.com/asadora_bk_nhk/status/2112393370958282798次回10/31の #土スタ は
『ブラッサム』特集!BKホールからの生放送で
『ブラッサム』激動の最初の1ヵ月を振り返ります🌸
ゲストは#石橋静河 さん#金子大地 さん#国仲涼子 さんもVTRで登場します!質問&メッセージは👇https://t.co/QKwOBAQhmM pic.twitter.com/9sB8Aqv3yl
— 土スタ (@nhk_dosta) October 28, 2026
まとめ
朝ドラ「ブラッサム」で珠が妊娠したことにあわせて、モデルの宇野千代さんの子供について、史実をご紹介しました。
- ドラマの第25回で、珠は保と恋人になり、数か月後に妊娠がわかった
- 宇野千代さんには、大人になるまで育った実の子供はいない(子供は0人)
- 2番目の夫・藤村忠さんと暮らしたころ、何度も妊娠し、赤ちゃんを亡くした
- 本人は対談で、6人の子を亡くしたと語ったと紹介されている(5回の妊娠とする資料もある)
- 自伝『生きて行く私』では、このことはほとんど書かなかったといわれている
- ドラマでも、珠は7か月の早産で赤ちゃんを亡くし、子供ができにくい体だと告げられる
珠と保がこの悲しみをどう乗りこえていくのか、これからの放送も見守りたいですね。
左良太のモデルと、宇野千代さんとの関係もあわせてどうぞ。
左良太のモデルは今東光で小説家?宇野千代との関係とは?