大和礼子のモデルは?ブギウギで飛鳥明子を蒼井優が演じる

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NHK連続テレビ小説・朝ドラ「ブギウギ」で蒼井優さんが演じる大和礼子のモデルは誰でしょうか?

ヒロイン福来スズ子のモデルの笠置シヅ子さんと同じ歌劇団だった大和礼子のモデルとされる飛鳥明子さんについてご紹介します。

今後の死亡や死因ついてもご紹介です!

目次

大和礼子のモデルは飛鳥明子!ブギウギのUSKトップスター!

ブギウギ股野と大和礼子は結婚する?今後のネタバレと実話も

大和礼子はUSKのトップスター

まずは、朝ドラ「ブギウギ」のストーリーのご紹介です。

大正の終わりごろ、大阪の下町の小さな銭湯の看板娘・花田鈴子は、歌って踊るのが大好きな天真爛漫てんしんらんまんな女の子です。小学校を卒業した鈴子は「歌と踊りでみんなを笑顔にしたい」と思うようになり、道頓堀に新しくできた歌劇団に入団。必死に稽古にはげんだ鈴子は、メキメキと成長、抜群の歌唱力で頭角を現していきます。

昭和13年、鈴子は上京。そこで、人気作曲家・羽鳥善一と出会い、大きく運命が変わります。鈴子は、作曲家の指導を受け、“スウィングの女王”と呼ばれ人気歌手になっていきます。

しかし、戦争が始まると、鈴子が置かれた状況は一変。鈴子の歌っていた歌は「敵性音楽」となり、鈴子の舞台での歌や踊りが厳しく制限されてしまいます。さらに、鈴子の弟は出征。また、ちょうどそのころ、鈴子の母も病気で亡くなってしまいます。

不幸が重なり悩んでいた鈴子の前に、ある青年が現れます。ふたりは恋に落ち、やがて結婚を誓いあうまでに。しかし、青年の家族は大反対、結婚はなかなか実現しません。やがて戦争が終わり、鈴子は青年の子を身ごもります。ところが、青年は病にかかってしまいます。会えない日々が続き、そして、臨月の鈴子のもとに届いたのは青年の訃報でした。死に目に会えず、結婚もできないままの別れ。数日後、鈴子はひとりで娘を出産しました。

鈴子は、ひとりで娘を育てながら舞台で歌います。そんな中、生まれたのが「東京ブギウギ」です。明るく、飾らず、全身で歌う、鈴子の真骨頂。戦後の傷ついた日本に、その歌声が響き渡ります。鈴子の歌声に合わせて、笑顔で歌い踊る人たちが日本中にあふれていきました。鈴子は“ブギの女王”と呼ばれるようになり、大スター歌手への階段を駆け上がっていきます。

引用元:https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=39517

朝ドラ「ブギウギ」のヒロインは花田鈴子!

歌と踊りが大好きな女の子で、小学校を卒業後の進路に悩み、花咲少女歌劇団を受験することに!受かる!と手ごたえがあった試験でしたが・・・まさかの不合格。

ショックを受けた鈴子でしたが、父親に誘われて梅丸少女歌劇団(USK)の公演を見にいきます。

花咲音楽学校の受験に失敗した鈴子(澤井梨丘)は酷(ひど)く落ち込んでいた。そんな時、梅吉(柳葉敏郎)から道頓堀に新しくできた梅丸少女歌劇団(USK)のことを教えられる。梅吉は鈴子をUSKの公演に連れて行くことにした。劇場でトップスターの大和礼子(蒼井優)や橘アオイ(翼和希)の踊りを見て感動した鈴子は、梅丸少女歌劇団に入りたいと心に決める。試験の日、鈴子は意気揚々と会場へ向かうのだが…

引用元:https://tv.yahoo.co.jp/program/117928265

そこで鈴子は、橘アオイ!

そして大和礼子の踊りを見て、魅了され、USK「梅丸少女歌劇団」に入りたい!と思うのでした!

鈴子がUSKに入るきっかけとなる大和礼子とは?どんな人物なのでしょうか?

桃色争議なぜ「桃色」?赤が名前の由来で蟹工船が発端の実話

大和礼子
(蒼井優)
大阪の梅丸少女歌劇団(USK)第1期生の娘役で、劇団を引っぱるトップスター。
ヒロイン・鈴子のあこがれの先輩。鈴子は踊りや歌への大切な精神を礼子から受け継いでいく。

大和礼子は、鈴子が入団することになる、梅丸少女歌劇団(USK)娘役のトップスターで、鈴子が憧れる存在になります。

男役のトップスターの橘アオイは同期でいつも見守ってくれる存在です。

そんなUSKの娘役のトップスターの大和礼子の実在モデルはある理由から梅丸少女歌劇団(USK)のモデルで松竹楽劇部(後のOSK日本歌劇団)の飛鳥明子さんでは?と思います。

大和礼子一のモデルは飛鳥明子で実在!

大和礼子さんのモデルは笠置シヅ子さんが小学校卒業後に所属した松竹楽劇部(後のOSK日本歌劇団)の一期生の娘役トップスターだった飛鳥明子だと思われます。

飛鳥明子さんがモデルだと思う理由は朝ドラ「ブギウギ」でも今後描かれる「桃色争議」に関係している人物だからです。

名前も

「大和礼子」

「飛鳥明子」

大和時代・飛鳥時代??と名前を変えてきた感じが、モデルなのでは?と思います。

「桃色争議」と飛鳥明子さんについては、後程詳しくご紹介しますが、まずは飛鳥明子さんについてご紹介です。

飛鳥明子さんは、1907年(明治40年)に開業医の家に生まれ、高等女学校を卒業後に松竹楽劇部に一期生として入団、そして娘役トップスターとして長年にわたり活躍。

笠置シヅ子さんが松竹楽劇部に入ったのは1927年(昭和2年)なので、その前後はトップスターとして活躍されていた飛鳥明子さん。

まだ入団する前のシヅ子さんにとって、おそらくスターという存在だったお思われる飛鳥明子さんは、トウシューズのつま先で踊る、トウダンスの名手でした。

トップスターとして活躍していた飛鳥明子さんですが、ある出来事をきかっけに、松竹楽劇部を退くことになります。

大和礼子の死亡の死因までをネタバレ!桃色争議のリーダーに

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大和礼子が桃色争議のリーダーに

そんな実在のトップスターがモデルの大和礼子のネタバレをご紹介していきます。

朝ドラ「ブギウギ」でも「桃色争議」が描かれるんです。

鈴子が梅丸少女歌劇団に入団し、6年がたち1933年(昭和8年)に。

梅丸少女歌劇団は関西で人気劇団に成長し、鈴子も劇団の中心として活躍していました。

そんな中、一部の楽団員が解雇になること、劇団員や一部の社員の賃金が減額されることが突然発表されます。

慢性的な不況が原因でした。大和礼子は会社と交渉すると団員たちに宣言しますが、数人が辞めてしまいます。

残った団員たちが大和礼子のもと、結束して、梅丸少女歌劇団の親会社の大熊社長にあてた嘆願書をうけとった林部長(橋本じゅん)。

この騒動は「桃色争議」として新聞に取り上げられ、世間を騒がせることに。

会社は団員たちに一時金を払ってごまかそうとしますが、そんな会社のやり方に失望した大和礼子は団員たちにストライキをよびかけ、ストライキを決行!

鈴子たちも一緒に山寺に立てこもり、舞台の稽古を続けながら規則正しい生活を送っていました。住職や地元の人たちは団員たいと応援してくれていました。

そして・・・山寺に梅丸の社員たちがやってきて、団員の要求を全面的に受け入れることになったと言います。

鈴子たちは喜び、山を下りることに。しかしその翌日、大和礼子と橘アオイが、争議の責任をとって辞めることに。鈴子たちは激しく反発しますが、結論が覆ることはなく、2人はほかの団員たちのために、退団するのでした。

ということで、皆のために会社に嘆願書を出して、ストライキを先導した大和礼子は、モデルの飛鳥明子と同じように歌劇団を退団する結末を迎えるのでした。

大和礼子の死亡の死因のネタバレとは?

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なんと「ブギウギ」では大和礼子の死亡と死因が描かれることがわかっています。

桃色争議をきっかけに、梅丸少女歌劇団を退団した大和礼子は、梅丸のピアニストだった股野と結婚していました。

大和礼子のことがずっと好きだった股野の思いが叶ったんですね!

2人は踊りとピアノの教室を開いていました。

そして、その後の鈴子たちの公演を見に来てくれて、鈴子の悩みを聞いてくれたりしました。

幸せそうな大和礼子でしたが、それからほどなくして、股野との子供を出産した大和が突然亡くなってしまいます((+_+))

大和礼子のモデルの飛鳥明子の死亡と死因とは?

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それでは、大和礼子のモデル飛鳥明子さんの死亡と死因はどうだったのか?史実をご紹介していきます。

松竹は1922年に道頓堀の松竹座を本拠地に松竹楽劇部を創設します。

そして、笠置シヅ子さんが松竹楽劇部に入ったのは1927年(昭和2年)。

1928年には、松竹楽劇部が東京へ進出し、東京松竹楽劇部が発足します。

そして1933年(昭和8年)6月にある事件が起こります。

松竹が松竹楽学部の一部の楽士の解雇のほか、全部員の賃金削減を通告します。

このことに怒った東京松竹楽劇部の団員たちは、新聞記者を集めて「絶対反対」の意思を示し、待遇改善を要求。

「レビューガール」と呼ばれた彼女たちの中心人物が、東京松竹楽劇部一期生で、当時18歳のトップスターの水の江瀧子(みずのえたきこ)だったことから、新聞は「桃色争議(ももいろそうぎ)」と書きたてました。

松竹側は水の江瀧子を懲戒解雇すると通告して態度を軟化させます。

しかし水の江瀧子以下、団員たちは神奈川県湯河原温泉の旅館に立てこもり、一時は水の江瀧子が警察に拘引される事態に。

その後も、松竹側に待遇改善を要求しましたが、拒否されたことで、今度は東京の動きに刺激を受けた大阪、関西の松竹楽劇部で70名余りの楽劇部員たちが当時も人気スターだった飛鳥明子をリーダーに舞台が中止されて高野山の金剛三昧院に立てこもりました。

そう東京を発端として起きた「桃色争議」の大阪でのリーダーとなったのが、飛鳥明子さんです。

この大阪の方のメンバーの中には、当時19歳の笠置シヅ子さんもいました。

東京のリーダーは、水の江瀧子さん、そして関西のリーダーが飛鳥明子さんということに。

結果、松竹は世間のイメージダウンを招いてしまったことから彼女たちの要求をのむことに。

そして翌月、東京のリーダーの水の江瀧子さんは謹慎処分。そして飛鳥明子さんをはじめとする幹部団員は責任を取り、退団となってしまいます。

しかし賃金カットは行われずに、団員たちの要求はほぼ通ったそうです。

このように、会社に対するストライキのリーダーとなり、退団に追い込まれてしまった飛鳥明子さん

「桃色争議」によって、責任を取らされて退団してしまった飛鳥明子。その後どうなったのでしょうか?

その後、結婚した飛鳥明子さん。

お相手は宝塚音楽学校の指揮者兼ギタリストの片野実雄さんです。ドラマのちょいと冴えない股野のモデルとなる方ですが(^^;実際はおしゃれな方だったようですね。

結婚後は、振付師として後輩を指導していました。

しかし、娘を産んで間もなくの1937年、病気により29歳でお亡くなりになりました。

死因は結核で、生まれたばかりのお子さんとも、感染させてはいけないので会えなかったそうです。

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1937年の時点で29歳なので、もし早くに亡くなられなくても、現在でしたが100歳は超えているはずなので、現在も生きていることはないと思いますが、それにしても早すぎる死が残念でなりませんね。

また死亡する前に出産された子供、娘さんの嘉子さんはなんと現在ご健在なんです!お孫さんのツイッターで判明しました。

一方で、「桃色争議」の後、大阪の松竹楽劇部は本拠地の道頓堀の松竹座から千日前の大阪劇場(大劇)に移して、大阪松竹少女歌劇団(OSSK)と名前を変えて戦前の全盛期を迎えることになります。

皮肉にも「桃色争議」のあった1933年に笠置シヅ子さんは、「秋の踊り」の舞踊劇「女鳴劇」で小姓役を好演し、トップスター十選に選ばれます。

一方、「桃色争議」後の第1回公演は「カイエ・ダムール」。引退した飛鳥明子に代わって人気を博したのが柏晴江(のち柏ハルエ)、美鈴あさ子(のちアーサー美鈴)です。

ちなみに柏ハルエは、「ブギウギ」に登場する大和礼子の同期の橘アオイのモデルにあたるのでは?と思われます。

大和礼子は蒼井優が演じる!

蒼井 優
Aoi Yu

生年月日:1985年8月17日
出身地:福岡県
血液型:A型
趣味:舞台鑑賞(ミュージカル)・ビデオ鑑賞・空鑑賞
特技:クラシックバレエ (2才より継続中)・タップダンス・ピアノ
サイズ:T160

引用元:https://www.itoh-c.com/artist/aoi/

そんな大和礼子役を演じるのは、蒼井優さん。

「日本アカデミー賞最優秀主演女優賞」「芸術推奨文部科学大臣新人賞 演劇部門」などなど数多くの演技の賞を受賞している演技力の高さは誰もが認める女優さんですね。

2019年には南海キャンディーズ山里亮太さんとご結婚され、2022年に女の子を出産したばかりのママさん女優でもあります。

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