チョッちゃん要は戦争で戦死する?帰ってくるのかネタバレと史実も

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黒柳徹子さんの母、黒柳朝さんの自伝をモチーフにしたNHK連続テレビ小説「チョッちゃん」の古村比呂さん演じるヒロイン蝶子の夫で、世良公則さんが演じた岩崎要(いわさき・かなめ)はこれから戦争に行ってしまうのですが戦死するのか?死亡するのか気になると思います。

チョッちゃん要は戦争で戦死する?のか?生きて帰ってくるのか?ネタバレとモデルの史実からご紹介していきます。

目次

チョッちゃん要は戦争で出征のネタバレとは?

朝ドラ「チョッちゃん」とは?

朝ドラ「チョッちゃん」は1987年(昭和62年)4月6日から10月3日まで放送された、NHK連続テレビ小説第38作目の作品、全156回話放送されました。

北海道・滝川の大自然で自由に育った少女が、やがて音楽の道を志し、昭和の激動期を天真爛漫に乗り越えていく。黒柳徹子さんの母の半生がモチーフ。

引用元 公式サイト

原作は黒柳朝さんの著書「チョッちゃんがいくわよ」。

昭和3年、北海道・岩見沢の女学校を卒業した北山蝶子(古村比呂)は、夢を追って上京し、音楽学校に進学します。北海道の雄大な自然と温かな家庭に育まれた蝶子は、自由奔放で明るい性格の持ち主でした。

やがて蝶子は、オペラのコーラスガールとして活動する中で、天才的なバイオリニスト・岩崎要(世良公則)と出会い、結婚。二人の子どもに恵まれます。しかし時代は次第に戦時色を強め、厳しい社会の波が家族にも押し寄せます。

それでも蝶子は「子どもはどんな時代にも心豊かに、個性的に育ってほしい」と願い、奮闘を続けます。苦しい状況すらも明るさと工夫で“楽”に変えていく姿は、涙と笑いが交錯する半生記として描かれた作品です。

ヒロインの蝶子を演じているのは、当時オーディションで抜擢された古村比呂さんです。

2025年現在BSで放送中の再放送では、これから太平洋戦争が本格化していきます。

岩崎要とは?

ヒロイン蝶子の夫、岩崎要役は世良公則さんが演じました。

1905年7月、東京に次男として誕生。8歳のときに父を亡くし、母は兄一家に支えられながら暮らしていました。しかし若き日の要は遊びに明け暮れ、兄からは勘当同然とされてしまいます。

やがて独学でバイオリンを学び、その才能を開花させ、NHK交響楽団のコンサートマスターにまで上り詰めます。まさに天才バイオリニストとして名を馳せた人物です。一方で女性からの人気も高く、恋愛沙汰のトラブルが絶えませんでした。

1928年、映画館で蝶子(古村比呂)と出会いますが、当初の印象は強いものではありませんでした。その後、蝶子がコーラスガールとして舞台に立つようになり、NHK交響楽団で再会。要は彼女に一気に惹かれ、交際期間を置くことなく告白に至ります。

気性が荒く、特にバイオリンの練習中は短気を爆発させることも多かった要ですが、その情熱と才能が蝶子の運命を大きく変えていく存在となりました。

蝶子は要と結婚し、3人の子供を出産しました。

ちなみに長女の加津子のモデルは黒柳徹子さん♪加津子役の子役キャストについては、以下の記事でご紹介しています!

チョッちゃん加津子役の椎野愛の現在とは?名前の由来についても

世良公則とは?

1955年に広島県で生まれ、1977年にロックバンド「世良公則&ツイスト」としてレコードデビュー。デビューからわずか1年足らずでトップバンドに駆け上がり、「あんたのバラード」「宿無し」「銃爪」「燃えろいい女」などのヒット曲を次々と発表。パワフルな歌声と熱気あふれるステージで当時の若者を熱狂させました。

1981年にバンドを解散した後はソロ活動を展開し、音楽シーンにおける存在感を維持する一方で、俳優としても活動の幅を広げます。映画やテレビドラマへの出演も多く、その演技力は高く評価されています。

NHK作品との関わりも深く、連続テレビ小説『チョッちゃん』や『梅ちゃん先生』、土曜ドラマ『55歳からのハローライフ』で印象的な役を演じてきました。さらに2021年の『カムカムエヴリバディ』では、こだわりのコーヒーとジャズが流れる喫茶店のマスター役を爽やかに好演。朝ドラ出演は3作目となり、幅広い世代の視聴者にその存在感を再認識させました。

引用元 公式サイト

『カムカムエヴリバディ』で、素晴らしい声も披露し話題になりましたね♪

おかえりモネの次の朝ドラはカムカムエヴリバディ!ストーリーなどまとめ

先日の参議院議員選挙で立候補されましたが、落選となりました。

歌手としてもまだまだ現役です!

世良公則さんのインタビューです。

僕がやっているロックミュージックは若者向けで激しいものだったので、両親や祖父母が理解するのに時間がかかったと思うんです。“朝ドラ”や『紅白歌合戦』に出演すると、おばあちゃんがすごく喜んでくれましたし、僕の音楽活動が決してアウトローなものではないことを家族に理解してもらえるという意味で、すごくありがたい機会でした。

黒柳徹子さんのお母様、朝さんの半生を描いた『チョッちゃん』で僕が演じたのは、夫となる要(かなめ)役。バイオリニストでNHK交響楽団のコンサートマスターを務め、こと音楽に関しては厳しい人物でした。でも、この作品以降、ミュージシャンの役はあまりお受けしないことにしたんです。というのも、本業と同じミュージシャンの役をやると、どうしても自分のセオリーがじゃまになってしまうから。『カムカムエヴリバディ』では、それこそ『チョッちゃん』以来35年ぶりに音楽に関わる役をお引き受けしたことになります。

要役を演じるにあたって、バイオリンを弾くシーンが何度かありました。子ども時代にバイオリンを習っていたことがあり、バイオリニストの役をやるならなるべく自分の音を使いたいと思ったんです。本業のミュージシャンでもそうなのですが、他人の出した音に合わせて弾いているふりをすることができないので、いつも生演奏なんですよ。それでNHK交響楽団でバイオリニストをされていた徹子さんの弟さんにお願いし、指導していただきました。

バイオリンというのは、3日休むと1週間、1週間休むと3か月、3か月休むと3年間、勘を取り戻すのにかかるといわれている楽器。ですから何十年も遠ざかっていたバイオリンを弾くのはたやすいことではありませんでした。でも、もともと楽器をいじるのが好きなのでそれほど苦には感じなかったです。当時、番組をご覧になった徹子さんからも「大変お上手に弾かれているわね」と言っていただき、とてもうれしかったことを覚えています。

引用元 公式サイト

要は戦争で出征のネタバレとは?

そんなヒロイン蝶子にとって、大切な存在である要ですが、太平洋戦争で、出征して戦争に行くことが分かっています。

公式サイトに「要が出征」とあるので、戦争に行くことは確かなんです(+_+)

要(世良公則)の周りでも、召集されて戦地へ行くものが絶えず、清郎(笹野高史)と将来について語り合う。蝶子(古村比呂)が台所仕事をしていると、雅紀(相原千興)の練習中、要の怒鳴り声が聞こえてくる。蝶子がどうしてそんなに厳しくするのかと問い詰めると、要は、自分に教えられるものはヴァイオリンしかない、と答える。召集されるまでに残された時間で、自分が残せる物を継がせたいと語る要に、何も言えない蝶子だった。

引用元:公式サイト

また召集令状は来ていないものの、戦地に行くことになる前に、息子にバイオリンを必死に教える要。

そして・・・その後、召集令状が来てしまい、戦地に行ってしまいます。その後、蝶子が3人の子供たちを厳しい戦争中に必死に支える姿が描かれます。

戦争に行ってしまうと言うことで、要がどうなってしまうのか?戦死するのか?死亡するのか生きて帰ってくるのか?気になると思います。

まずは、要の実在モデルの黒柳朝さんの夫・史実をご紹介していきます。

チョッちゃん要のモデル・黒柳守綱の戦争の史実とは?

黒柳守綱さんの史実をご紹介しつつ、戦争・戦死についてもまとめていきます。

黒柳朝さんもお美しいですが、守綱さんもハンバないイケメン(≧∇≦)

この写真は、淡谷のり子さんが「美しい夫婦」と推薦し、雑誌に掲載されたものです。

芸能人のご夫婦のようですね(≧∇≦)

12歳で就職

黒柳守綱さんは1908年東京生まれ。医者でカトリック本所教会の長老を務めていた田口潔矩さんの四男として誕生しました。

8歳のときに父親が亡くなり、兄の修治さんと一緒に三越呉服店で働き始めました。

時期は不明ですが、母方の養子となり、田口姓から黒柳姓へと変わったそうです。

このとき守綱さんは12歳!このとき社員となります。法令遵守もなかった時代なんですね~。

三越といえば、現在朝ドラ「あんぱん」でヒロインの夫のモデル、やなせたかしさんも三越で働いていましたが、やなせたかしさんがいたのは1947年から1953年まで。

まだ随分先のことになります。

黒柳守綱さんは三越で音楽部に入り、そこでバイオリンを学びました。

三越少年音楽隊で演奏されたそうですが、音楽隊は1922年に解散したそうです。

コンサートマスターへ

その後ハタノ・オーケストラを経て、山田耕筰の交響楽運動により日本交響楽協会へ進みます。

山田耕筰に見いだされ、天才少年バイオリニストと話題になったそうです。

1937年に現在のNHK交響楽団のコンサートマスターに就任。

1942年から東京弦楽四重奏団としても活動し、毎日新聞優秀演奏家賞を受賞されました。

黒柳朝との出会い

黒柳朝さんとは、朝さんが東洋音楽学校声楽家の学生だったときに出会いました。

朝さんが伯父さんの家に住んでいたときです。

ベートーヴェンの『第九交響曲』の公演を共にしたことで知り合います。

朝さんが音楽学校の3年生だったとき。オペラのコーラスガールのアルバイトをしていて、その最終日に楽屋口から出ると、バイオリンケースを持った守綱さんが待っていました。

朝さんは「見たことあるような?」くらいにしか思っていなかったそうですが、お茶に誘われ応じます。

連れていかれたのは守綱さんが住んでいたアパートの1階にある喫茶店。

店を出た後、守綱さんは「僕の部屋に行ってみない?」と尋ねます。

断るのも悪いと思った朝さん。30分くらいで帰ろうとしましたが、電車はもうない、と言われます。

泊まっていかなきゃダメだよ、と言われ、朝さんはびっくりしてこう思ったそうです。

人さらいにさらわれてしまった。

もうだめだ

拉致監禁?

翌日守綱さんは、朝さんにこう言います。

もう学校へも行けないし、伯父さんの家にも帰れない。君は僕のお嫁さんになるしかないよ

守綱さんは部屋の外から鍵をかけ、外に出ちゃダメだよ、と言って仕事に出かける毎日。

お昼にはパンと牛乳を買って走って帰り、一緒に食べてまた仕事に戻る。

そんな日々が5日ほど続いたそうです。

一歩間違えると拉致監禁で、逮捕されかねませんよね。

ですが朝さんも部屋を抜け出したりしていたそうで、積極的に逃げようと思わなかったようです。

伯父さんになんて言うか・・・どれほど怒られるのか・・・という不安の方が大きかったのです。

淡谷のり子

朝さんが拉致監禁された5日ほど経ったころ。ずっとアパートに閉じ込めておくのも・・・と思った守綱さんは、仕事先に朝さんを連れていくようになります。

バイオリンを弾いている舞台の外に椅子を置き、そこに朝さんを座らせていました。

そこにたまたまやってきたのが、朝さんの2学年上だった淡谷のり子さん!

朝さんは淡谷のり子さんに、可愛がってもらっていたといいます。

それを朝さんから聞いていた朝さんの兄が、淡谷のり子さんに相談していたのです。

こんなところで何してるの?正直に言いなさい、悪いようにはしないから

お兄さんが学校に来たり、家じゅう心配して大騒ぎしていることを伝えました。

淡谷のり子さんの後押しもあり、守綱さんの叔父が、北海道まで結婚の申し込みに行きましたが、朝さんの父親が激怒したそうです。

結婚

ですが反対を押し切り、朝さんは音楽学校を中退し結婚。

翌年に黒柳徹子さんが生まれ、3男2女が誕生しましたが、長男は幼いころに亡くなりました。

守綱さんには定収入がなかったので、朝さんの母親がお金や食料を送ることもあったそうです。

仕事一筋の守綱さん。朝さんへの執着は変わらずで、朝さんはクラス会にも出席しなかったといいます。

いつも一緒だったというご夫妻。ツーショットの写真にはこんな添え書きが。

生前の写真のどれも、パパは私の肩に手をかけています

守綱さんが34歳のころの1942年、満洲国建国10周年を祝し、演奏家と楽団員で組織された「満洲国建国十周年慶祝交響楽団」の一員として満州に派遣されます。

さて、このあと守綱さんは出征し戦争にいくのでしょうか?

朝ドラ「チョッちゃん」岩崎要が戦争に行き戦死するのか、モデルの史実から考察してみましょう。

岩崎要のモデルは、黒柳徹子さんの父親で、黒柳朝さんの夫、黒柳守綱さんです。

戦争の史実!満州に出征後、シベリア抑留!生きて帰ってきた?

守綱さんは1944年に召集され、満州に出征しています。

1945年の敗戦後、ソ連に抑留(シベリア抑留)されました。

朝さんたち家族は青森に疎開していて、守綱さんからはまったくの音信不通。

ですが守綱さんが、シベリアに抑留されていることが新聞に載り、生きていることがわかりました。

それから朝さんは汽車が止まると走って行き、毎日こう聞いて廻ったそうです。

黒柳守綱のバイオリンを聞いた方、いらっしゃいませんか?

黒柳徹子さんは「いないよ」と思っていたそうですが、ある日聞いたという人が!

元気でしたよ、奥さんも頑張って生きてください

黒柳徹子さんは、とても嬉しかったことを覚えておられるそうです。

日本軍捕虜収容所の巡回・慰問

守綱さんは抑留されたあと、ソ連からバイオリンを渡され、ハバロフスク沿岸の日本人の捕虜の収容所の巡回と慰問をされていました。

一般の抑留された人たちは強制労働を強いられ、苦しい思いをされています。

ソ連では音楽を含めた芸術を、国民の意識をするための策として重視していたそうで、強制労働よりは待遇が良かったものと思われます。

守綱さんは合唱指揮者の北川剛さんチェリストの井上頼豊さんとともに「沿海州楽劇団」として活動。

のちに日本人のためだけではなく、現地の工場や作業場などでソ連の人たちにも演奏するようになりました。

守綱さんは1949年に帰還され、東京交響楽団のコンサートマスターに就任されます。

1983年74歳で死去

新交響楽団、東京交響楽団といった、当時の日本における主要オーケストラのコンサートマスターを歴任されてきた黒柳守綱さん。

スタジオでもその能力を発揮され、1954年公開「ゴジラ」のテーマ曲を演奏されました。

1983年4月30日に74歳でお亡くなりになっています。

結婚の馴れ初めは、事実の方がかなり怖かったですが(笑)史実に近く描かれていると想像できます。

要のモデル、黒柳守綱さんは戦争に行きましたが、翌年に敗戦となりシベリア抑留されています。

その後は同じ演奏家たちとともに、日本人の捕虜の収容所の巡回と慰問、さらにはソ連の工場などでも演奏されました。

1949年にようやく帰還されたので、要も戦争には行くけど戦死はせず、戻ってくるのでしょうか?

史実と同じように、生きて戻ってくるのでしょうか?

以降では、ドラマ「チョッちゃん」のネタバレから要は戦争で戦死するのか?ネタバレをご紹介していきます。

知りたくない人は閲覧注意です。

チョッちゃん要は戦争で戦死する?帰ってくるのかネタバレ【閲覧注意】

蝶子は疎開先で行商をして家族を支える!

要が出征した後、蝶子の家族に関して悲しい出来事が続きます。

ここでは、重要なネタバレになるので伏せますが・・・。

その後、蝶子の母親と子供たちと一緒に、生きていくために、青森の諏訪ノ平に疎開します。

このあたりは、ドラマの原作となった「チョッちゃんが行くわよ」でも描かれています。

ちなみに疎開したとき、駅で出会う行商のおばさん役でなんと黒柳徹子さんが登場しています!

そして、蝶子は皆で生きていくために、行商をして家族を支えていき、戦争を生き抜いていきます。

最終回が近づいても要は帰ってこない!戦死する?帰ってくる?

物語は最終回間近・・・なんと最終回目前まで要が生きているのか?死んでいるのか?戦死してしまったのか?わからないまま物語は進んでいきます(+_+)

視聴者をドキドキさせるのですが・・・最終回直前で要さんが戻ってきます。

戦争中は、悲しい別れが多数あるのですが、要さんが戻ってきて、家族で北海道のお父さんのお墓参りに行きます。

また戦前に離れ離れになってしまった人達と再会するある意味ハッピーエンドな終わり方を迎えます!

と言うことで、史実通り、要さんは戦死しない生きて戻ってくる、帰ってくると言うネタバレでした。

まとめ

朝ドラ「チョッちゃん」ヒロイン蝶子(古村比呂)の夫、岩崎要(世良公則)は戦争で戦死?と心配な視聴者も多いと思います。

要のモデル、黒柳守綱さんは1944年に満州に出征し、翌年に敗戦を迎えます。

ソ連に抑留され、演奏家たちとともに、日本人の捕虜の収容所の巡回と慰問などをされます。

1949年にようやく帰還されたので、「チョッちゃん」要も戦争には行きますが、無事戻ってくるのでは?と思われます。

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