わろてんかは吉本興業が北村笑店のモデル?吉本せいの成功の歴史

NHK連続テレビ小説「わろてんか」は、笑い上戸のヒロインが笑いを愛する旅芸人と恋に落ち、笑いを商売にしてしまおうと奮闘するお話です。

舞台となるのは明治後期の大阪。

二人が経営する寄席は経営危機を乗り越えて、だんだんと拡張してきました。

大阪で古くからある寄席といえば、思い浮かぶのは吉本興業ではないでしょうか。

吉本興業の創始者といえば”吉本せい”さんです。

では、ヒロイン藤岡てんは吉本せいがモデルなのでしょうかー?ご紹介していきます!

今後のネタバレも一部含まれますので、閲覧注意です。

 

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わろてんかのモデルは吉本興業?

てんと藤吉(松坂桃李)が最初に経営する寄席は「 風鳥亭」。
この「 風鳥亭」は吉本興業が最初に買収した「第二文芸館」がモデルだと考えられます。

この第二文芸館は経営不振で廃業した寄席で、場所も悪かったので入場料(当時は木戸銭といった)を安くして、芸人も出演料が少なくて済む三流芸人などを雇っていました。

吉本興業はのちに傘下の寄席に「花月」という名前をつけています。
吉本興業が最初に買い取った第二文芸館も「天満花月」に変わりました。

風鳥亭と花月・・・組み合わせると「花鳥風月」になるんですね(^ ^)
なかなか粋なはからいだと思わずニヤッとしてしまいました(笑)

その後吉本興業は、ほかの派閥を買収や吸収をしながら大きくなり、やがては上方演芸界の頂点に立つことになりました。

サラッと言いましたが凄いことですよね。

商売に関する才覚や大金を動かす度胸、それに野心もなければできません。

吉本せいは、吉本興業をどのようにして現在の地位まで築いたのでしょうか?

 

吉本せいはどうやって吉本興業を成功させたのか?

まず最初に、吉本せいはドラマのてんのようにお金持ちのお嬢さんではありませんでした。

父親からはかわいがられていたようですが、兄弟も12人いて貧しいなか逞しく育っています。

夫である吉本吉兵衛は、ドラマの中の藤吉なんてもんじゃないぐうたらな亭主。

そしてお姑さんも、ドラマの啄子(鈴木京香)なんてかわいいかわいい!って思えるほどの意地悪な人だったそうです。

当時はお姑さんが厳しいのは当たり前でしたが、せいのお姑さんは後家さんだったのでよけい辛く当たったのかもしれません。

おまけに8人の子供を育てていて、止むに止まれず一時実家に戻ったこともありました。

そして吉兵衛の実家の家業が倒産し、吉兵衛は寄席を買いたいと言い出します。

せいは実家などからお金を工面し、廃業した寄席を購入しますが客の入りは今ひとつ。

当時出演料が高かった落語家などは呼ぶことができず、色物芸人などを中心にしていましたが、入場料も安かったので少しずつ客が増え始めました。

売り上げを伸ばすためにドラマでも売っていましたよね、冷やし飴。
これも実際にせいがやっていたことです。

飲み物が売れるようにとわざと塩辛いものを売ったのもせいのアイディアだったようです。

またせいは人件費を削るために客の対応や呼び込み、売り子、それに芸人の世話などもしていたそうで、それを見ていた芸人たちにも一目置かれる存在になりました。

働き者であった上、いろいろなアイディアを出して経営を支えていたようですね。

無駄なことにお金は使わない主義だったようですが、使うところはど〜んと気前良く使うというキップの良さもあり、お金の使いどころを心得た才能の持ち主だったんだと思います。

夫の吉兵衛は何もしなかったのかといえばそんなこともなく、ドラマの藤吉と同じように芸に関してはかなり詳しく、寄席のチェーン化などは吉兵衛の考えだったそうです。

寄席の切り盛りをしていたのはせいですが、実際に指揮していたのは吉兵衛だったという話もあります。

 

吉本興業はどんなことを始めたか?

 

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吉本興業はいろんなことに挑戦しています。

「吉本興業ヒストリー」からご紹介します。

1912年 第二文芸館で寄席経営を始める
1914年 次々と寄席を買収しチェーン化を始める
1915年 寄席に花月の名前をつける
1921年 専属の芸人として桂春団治を雇う
1922年 月給制を導入
1922年 安来節のスカウトをしに安来節の本場出雲地方へ行く

引用元 http://www.yoshimoto.co.jp/100th/history/

どうでしょうか?
今なら当たり前のことですが、当時としては画期的なことばかりです。

空前の売れっ子だった桂春団治と専属契約を結ぶというのは、とても画期的でした。
ドラマでは月の井団吾(波岡一喜)と契約しましたよね。

月給制も芸人にとっては珍しいことでした。
ドラマでもみんな喜んでいましたよね♪

そしてスカウト!
わざわざ地方までスカウトに出かけるというのもあまりなかったようです。
実際にはせいの弟正之助がオーディションに出かけたと言われています。

ここまでがドラマとリンクする史実になります。

では次にこれからドラマで起こりそうな吉本興業の出来事についてご紹介します。

 

わろてんかでこれから描かれそうな史実は?

1922年 自社のPR誌「旬刊演芸タイムス」創刊
1923年 関東大震災で被災した関東芸人を慰問
1923年 レコードを作る

演芸タイムス、これはドラマに出てくるんじゃないかと勝手に思っています。
劇場に来た客に配られたもので、興業予定や芸人の紹介などが載っていたそうです。

そして多くの死者と甚大な被害をもたらした関東大震災では、慰問団を派遣して落語家や芸人などに物資を届けました。
これがきっかけで後に関東に大物落語家が吉本の高座に上がりました。

そしてドラマに出てきそうなのがレコードですね。
所属していた落語家や漫才師がレコードを吹き込むようになりました。
ただ、せいの弟林正之助は山口組の名をかたり、レコード会社乗っ取りの容疑で逮捕された経緯があるので、ここはスルーかもしれません(⌒-⌒; )

そして1924年37歳という若さで吉兵衛は亡くなります。

ということは藤吉が・・・? 死んじゃう???

さて、ドラマではどうなるのでしょうか。

夫の吉兵衛が亡くなった後、せいは弟の正之助を右腕としてさらに吉本興業を大きくしていきます。

1928年 専属の万才人が48組みになる
1930年 横山エンタツ・花菱アチャコのコンビ誕生(アサリとキースのモデル)
1930年 万才専門館を作り、万才ブームを巻き起こす
1930年 安来節を中心に浅草の「万成座」で興行を始める
1931年 満州へ慰問団を初派遣
1934年 アメリカからマーカスショウを呼び東京の日本劇場で上演、ショウという言葉を広める
1934年 ラジオにより寄席中継される
1934年 映画制作を開始、エンタツアチャコのトーキー映画「あきれた連中」が封切り、東宝と提携
1937年 ミスワカナと玉松一郎が入社、歌謡万才ブーム
1939年 通天閣をせいが31万円で買収
1943年 芦辺劇場や新世界花月、それに通天閣が類焼し、通天閣を解体し大阪府へ寄贈
1945年 戦禍により多くの劇場がなくなる
1948年 せいが取締役会長に、そして弟の正之助が取締役社長に就任

引用元 http://www.yoshimoto.co.jp/100th/history/

アサリとキース(大野拓朗と前野朋哉)や、伊能栞(高橋一生)の活躍はこれからのようですね。

また、せいの弟の正之助のモデルは風太(濱田岳)といわれているので、これから右腕となっていきそうですね。

正之助は恐喝で逮捕されていますが、実際に山口組とも仲が良く、いろんな面倒ごとも解決していたそうです。

栞様、このまえ風太に言いましたよね、「北村笑店の用心棒だ」って。

正之助のそんな裏の顔は描かないと思っていましたが、その辺も突っ込んでいくのかもしれませんね。

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まとめ

こうみるとフィクションを織り交ぜながらも吉本興業の軌跡に沿って「わろてんか」のストーリーが作られているようです。

安来節も史実ではこれから一大ブームとなるようです♪

あの4人の乙女たちの活躍が楽しみです(^ ^)

 


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